石坂先生

 その日の練習後、康太はグラウンドの敷地から五十メートルほど離れたキャンパス内にある国際経営学部棟に足を運んだ。三十年ほど前までは短期大学だったが、いまでは規模が小さいながらも四大に名称を変え、昨年教育学部の他に社会人間学部が誕生した。


 康太は直接グラウンドに繋がっている裏門からではなく、大回りして正門から歩みを向けた。狂ったように木やコンクリートを殴っている空手サークルの目に留まるのを避けて。


 それにしてもここまでバットとボールが衝突する音が薄っすら聞こえてくるのは恐れ入る。おそらく我がチームの四番バッター山内の自主練習だろう。


「ランニングゥ」


 空手部のキャプテンがいきなりそう叫んで、道着をきた一団が列を作り康太の方へ進んでくる。康太はすぐに道を開け、一般学生を装った。


 強化指定され大学から多額の援助を受けている野球部が疎ましく思っているサークルや部活は多い。しかし、つい最近まで現役の選手だった康太は、その勇ましい体格から部活を偽ることは無理があった。かけ声をあわせ、足並みを揃えてこちらを睨み進むその姿はまさに熱気の塊だった。活気盛んな選手ならばこの集団に睨みの一つくらいかえそうものだが、蒸し暑さの中、大量の汗をかきながら殺気のような気合が漲っている彼らを相手にしようとはとても思えない。


 このまま帰ってしまおうかな。康太の心は揺れ動き、体は自然にバス乗り場の方へ向いていた。


「菱田くん、どこにいくんですか」


 先ほどまで目の前にあったキャンパスに背をむけた瞬間に声をかけられた。


 振り返ると、小柄で眼鏡をかけた初老の男が、面白くなさそうにこちらに近づいてくる。


「こんにちは、石坂先生」


 康太はその場に立ち止まり、深々と頭を下げた。


「はい、こんにちは。じゃないよ、お前いま帰ろうとしたよな」


「まさか、そんな」


 石坂先生は、野暮ったいスーツを身に纏い大学教授らしからぬ威厳の無さを醸し出していた。理由は分からないがいつも野球部の公式戦用の帽子を被っているのはこの人が紛れもなく我が野球部の部長であるからだ。


「今日監督から話を聞いただろう」


「えぇまぁ、断片的ですが」


「なら話は早い、とりあえず俺の研究室に来い」


 そう言って石坂先生はジャージの裾を掴んだ。


「先生恥ずかしいっす、どこにも行きませんって」


「あっそう、じゃあその言葉を信じよう。俺は学生を信じられる教授だからな、ところでお前長袖なんか羽織って熱くないわけ」


「ほっといてくださいよ、アンダーシャツがノースリーブの薄い奴しかなくてこれで外歩くの嫌なだけっす」


「あっそ」


 石坂先生はとことことキャンパスに足を進める。康太はバレないようにため息をつきながらその歩みを合わせた。遠くの方で威勢のいい掛け声が聞こえてくる。あの集団がおり返してくる前に早くこの場を去らなければならない。


「あと言い忘れたけど」


 首だけ振り返った石坂先生は事務的な口調で淡々と言った。


「お前高校生に野球だけじゃなくて勉強も教えるからな」

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