第2話 冷たい夜風と共に、あなたは現れた

「はあ……はあ……はあ……」


 私は夜の闇の中、ひたすら都の外れにある町屋の間を駆ける。

 もう何十分走ったのだろうか。

 いや、もしかしたら数分にも満たない短い時間なのかもしれない。

 それでも、十歳ほどの細い私の足は限界を迎えていた。


「ぐああー!!」


 犬でもない猫でもない。

 禍々しい何か怖い「それ」は、狼のような速さで私に襲い掛かって来る。


 私は裏道に入り込んで木樽を転がして相手の行く手を阻みながら、必死に前へ前へ走った。

 なるべく細い道を選んで、大きな体の「それ」に捕まらないように逃げる。


 なんとか闇に包まれた家の軒先に隠れ、小さく体を縮こませながら息を殺す。

 うまく逃げられたのか、私を見失った「それ」の気配が消えた。


 視線だけを動かしながら周りを確認する。

 やがて、私の心臓の音が少し鳴りやんだその時、「それ」は突然現れた。


「ぐおおおー!」


 私を見つけて雄たけびをあげた「それ」は私に手を伸ばしてくる。


「やだっ! 来ないでっ!!」


 身軽な体を利用して素早くその手を交わすと、すぐさまもう一度走り出す。

 裏道から大通りまで出た時に振り返ると、もう「それ」はすぐそばまで来ていた。


 裸足の私は傷だらけで、血も滲んでいる。

 けれど、不思議と痛みは感じなかった。


「──っ!!」


 もう息もまともにできないほどの体は、足がもつれて地面に転んでしまう。

 迫りくる恐怖で足もがくがくと震える。

 「それ」が私に再び手を伸ばした。


 立て立て立て立てっ!!!!!!!

 心の中で自分を奮い立たせる。

 地面についた両手で必死に体を引きずって、少しでも前へ逃げる。


 助けて……!

 もう声も出なくなった私は、自分の最期を覚悟して目を閉じた。



 ──しかし、その時は訪れなかった。


「ぐぎゃああああああああああーーーーーー!!」


 耳をつんざく様な「それ」の叫び声が聞こえて、私はゆっくりと目を開いた。

 私を「それ」から守るように立つ彼は、美しく長い黒髪を靡かせている。

 その奥で先程まで私を追いかけていたものが、散り散りになって消えていった……。


「立てるか」


  怖くて声も出ず、それでもなんとか必死に冷静で冷たいその声に応えようとする。

 でもたった今、人間ではない存在に襲われ、そこを彼に助けられたのだと、ようやく理解をし始めた私の脳は、私の体をうまく動かしてはくれない。


「う……あ……」


 言葉にならない声しか出すことができない私に彼の顔が近づいて来る。

 視界でどんどん大きくなる彼の顔立ちは、この世のものとは思えないほどに美しい。

 青紫の瞳と長いまつげに気を取られていると、形のいい唇が動いた。


「ちょっと失礼する」

「──わっ!」


 か弱い少女のような声は出なかった。

 なんとなく恥ずかしくなって私は着物の袖で顔を覆いながら俯く。


 先程とは違い見晴らしのいい高さになる。

 ──ああ、彼に抱き上げられているんだ。

 なんだか落ち着かない浮遊感に包まれながら、私はあたふたとする。

 彼の逞しい腕に抱きあげられて、心臓が大きく鳴り響く。


 彼に聞こえないだろうか。

 そう思うほどに私の鼓動は速く大きく鳴っている。


 今、誰かにこの状態を見られたらどんな風に思われるだろうか。

 きっとなんて不釣り合いな二人なんだ、と思われるに違いない。

 だって、彼の着物は上質な布であるのがわかるし、偉い人なのだと一目でわかる。

 それに比べて私は貧相な体に、ボロボロの擦り切れた小袖に裸足。

 段々申し訳思えてきて、私は黙って俯くしかなかった──


 帰る家もない私を抱えて、彼はどこかに向かって行く。


「ど、どちらへ?」

「家がないのだろう。うちに来い。面倒を見るくらいできる」


 ああ、この人はなんて優しい人なんだろう。

 ひどく冷たく聞こえたその声の裏には、きっと優しい気持ちが詰まっている。

 そんな風に思いながら彼を見つめていると、視線がばっちりと合う。


「──っ!!」

「なんだ?」

「い、いえっ!」


 月の光がより彼の青紫色の瞳を輝かせる。

 どうしてこんなに目を奪われてしまうのだろう。


「名は?」

「え……」


 もう一度言わせる気か、とばかりに目を細められる。


「凛……です」

「そうか。十八まで面倒を見てやる。それまでに自分で生きる術を身につけろ。できるか?」


 そう聞いて私は俯いてしまう。


「できないのか?」

「いえ、ありがたいお話ですが、私は亡くなった父や母に拾われた子でございます。年は……わかりません」


 そうだ、私は拾い子のため年齢がわからなかった。

 だいたいの年月で覚えており、おおよそ十くらいの年齢だろうと思う。

 彼は私から目を逸らす。


「では、今日がお前の生まれた日とする。十一の月の三日。今から八年後の今日までに身につけろ。できるな?」


 どうやって生きる術を身につければよいだろうか。

 そうして考えた時に、先程のことが頭をよぎった。


 刀を手に持って救ってくれた彼のその後ろ姿。

 頼もしくて、優しくて、そして何より強かった。


 私もなれるだろうか。

 この命を救ってくれた彼のように、強く、強く──


「あなた様のお名前をお聞きしてもよろしいですか?」


 私が尋ねると、こちらを向いて彼は口を開いた。


「零」


 彼の名を聞けたことが少し嬉しくて、胸元をぎゅっと握り締める。


 零様のために役に立つことができるだろうか。

 そのために私は何をすべきだろうか。



「強くなれ」

「え……?」

「お前自身でお前の身を守れ」


 まるで私の心の中を見透かしたかのような言葉に、私は生きる希望を見出した。


 強くなることこそが、私が生きる道。

 ならば、私はこの助けられた命を強くなることの為に使いたい。



 こうして、私は新しい生きる道を見つけたのだった──

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