第44話 恋とか愛とか、そんなの

 ダフネから彼女の選択、つまりソレイユの死後にユウを引き取って育てることにした真意とそこにある想いを聞くはずが、なぜかユウは神彫院を出た後に私と結婚すると言い出した。

 エルダから聞いた婚約云々の件をいったいどう解釈したらそんな奇想天外な考えに至るのか。


 動揺する私に対してダフネは鼻で笑った。


「そんなにこの子と離れたくないの?」

「うん、ずっといっしょにいたい。リラもそう思ってくれているよね? 本当だったら結婚ってそう想い合っている仲の人たちでするんだよね?」


 本当だったら、か。

 その注釈をしたのはエルダに決まっている。いつそこまでの話を二人でしたかは知らない。私とエルダがあの夜に二人きりで話す機会を作ったように、ユウとエルダの二人で話した時間もどこかであったのだろう。

 それはつい昨日や一昨日の可能性もある。たとえば私がふらふらと森を散歩している間に。独りの時間を意識的に作っているその時に。


「……どうなの?」


 黙り込んだ私にダフネが訊ねてくる。真横にいるユウの瞳には期待がきらめいていた。

けれどそれには応えられない。いきなりが過ぎる。


「未来のことで何か誓い合ってはいません。ましてや結婚だなんて。それが法的に認められないのは、ユウも知っているのだと思っていました」

「どういうこと?」


 灰色の落胆。

 私は少なくともスクルトラにおいて同性間での婚姻関係が法的に保障されているのを聞いたことがないと伝えた。ユウの表情は変わらない。そしてダフネが溜息をつく。


「おかしな子」

「えっと……?」

「そうではなくて、あなた自身の気持ちをそのまま言いなさい。ユウのことをどう思っているの?」

「どうって――――大切な友達です。いっしょにいたいと思っていますが……」

「でも家族になりたいとまでは、それぐらいの強い気持ちはあなたの側にないのね?」


 家族。

 私はその言葉の持つ意味を改めて考える。

ダフネにはあったのだろうか?カシラギの案を退けてユウを引き取った時に、彼女は幼いユウと家族になる強い意志が。


「たとえば……想像してみるんです。一年後、十年後、二十年後。私とユウとが一つ同じ屋根の下で暮らし続けているのを。具体的な暮らしぶりまでは想像できなくても、いっしょにいられる、そんな気はします。ぼんやりと。こういうのって家族と言えませんか」


 その時になってまだ私が木を彫り続けているかわからない。ユウにしたって歌い続けているのか定かでない。けれど二人でいっしょにのらりくらりと日々を積み重ねている姿は思い浮かべられる。それは別離して、互いの道をそれぞれ進むのと同じ程度に想像できるのだった。


「そうね、あなたたちは姉妹のような間柄にはなり得るでしょうね。聞き方を変えるわ。というより、まずはユウに確かめないといけなかった」


 ダフネはそう言ってからもったいつけるようにハーブティーを一口啜った。その間にユウは背筋をしゃんとして、何を聞かれてもいいように身構える。

 私はいうと、気がつけば右の掌を開いたり閉じたりしていた。最後に鑿を握ったのは昨日だ。今日はまだ握らずにいる。空を掴んでは放すと、ぎゅっ、ぎゅっと音がした。


「ユウ、あなたはこの子を愛しているの?」


 ダフネのこの問いにユウは答えようとした。やはり躊躇いなく、返す素振りだ。けれどもダフネがそれをすかさず止めた。「聞いて」と制した。


「私が母親になれないのは、そして女神像をのはね、愛を知らないからよ。馬鹿みたいに聞こえるでしょう? 自分でもそう思うわ」


 ダフネが欠けた右手をさする。優しげに、でもその顔には翳りを落として。


「ソレイユはあなたの父親を愛していた」


 悲劇的なまでに、とダフネは言い添える。


「あの森で惚気話を散々聞いたわ。最後にはいつも涙に変わる話だった。それにカシラギだって……今はどうか知らないけど、私に熱情を抱いていた。あれは恋心と呼んでもかまわないでしょうね。そんなふうに二人から愛だの恋だのを感じとることができた。――なのに、私は誰にもそういった気持ちを燃やせずにいる」


 ユウを神彫院に入れた後、各地を転々としながらダフネはその相手を探し求めているのだという。恋に恋する乙女、そう形容するにしては彼女は老いている。とうに熟れているが彼女は恋を知らないままだ。


「さぁ、愛も恋も知らない女に育てられたあなたが、この子に抱いている感情をありのままに話してみて。それがもし、この私が今も自分に降りかかってくるのを夢見ている熱い想いなら、神彫院を出てからは好きにするといい。もちろん、この子がそれを受け入れるならね」


 話し疲れた、というふうにダフネが肩を竦めた、後はもう、ユウの話を聞くだけだとその姿勢が示す。


 ユウが私に恋をしているかどうか、それを真剣に考えたことなど一度だってなかった。ユウからの信頼や親愛は感じる。でも、私が物語の中で知る恋は別物だ。


 逃げ出したくなった。


 私はまた掌を開いては閉じる。

 聞きたくない。ユウが私に特別な気持ち――ソレイユを死に追いやり、少女でなくなってなおダフネが渇望しているものだ――を抱え込んでいるのなら、私はそれに応えられる自信がないのだ。


 そしてもしも応えられないことで、ユウが女神像を彫れなくなる未来があるとしたら?

 

 それを回避したい。木彫りの未来のためにそれはあってはならない事態だから。

 今、私の真横で頰を赤く染めて唇を震わせている少女は、次代の神樹の彫り人に最も近い人間だ。彼女の瞳の中の聖域は誰にも穢されてはならない……。


「ユウ、結論を急ぐことはないよ」

「リラ……?」

「神彫院に戻ろう。資料室には、恋愛を題材にしたお話もいくつかある。エルダさんが、昔に流行った小説なんかもあそこに置いてあったって言っていたんだ。そういうのを読んでみたらいいんだよ。せっかく文字の読み方を教わったんだから」

「けど選出課題が……」

「ユウなら大丈夫だよ。木に向かえば、木と二人きりになったら、あなたは誰よりも上手に、特別に彫ることができるから。だから、大丈夫」


 私はユウの頭に手を伸ばし、いつもどおりに撫でようとする。彼女はそうされるのが好きだから。そうすると笑顔になるから。笑顔になれば、この場はきっと落ち着くから。


 ぱしんっと。

 数秒してから、手を払いのけられたのがわかった。


「リラはちがうんだね」

「え……?」


 一筋の涙が頰を伝うのを目にする。

 外はもう暗いのに、灯りに満ちたこの部屋で私がよく知る彼女は涙を流して、私を睨んでいた。


「出ていって!」


 座ったままで、ユウが私を両手で力一杯に押した。私は訳がわからず悲鳴も出せないまま、椅子から転げ落ちる。「やめなさい!」とダフネが叫ぶ。


 ユウが私を見下ろす。私はまだ状況が飲み込めず、彼女に手を伸ばした。その手を彼女は取らずに、恨めしそうに見るだけ。


 やがて私は自分の力で立ち上がると、「出てけ!」と何度目かの涙交じりの叫び声気圧され、ふらつく体で家を出た。




 澄み切った夜空には数え切れない量の星々が瞬いている。


 その下を私は一人で歩いている。


 もうすぐ神彫院だ。


 祈祷する里長たちの姿を見ようと約束していたのに、一人ではそんな気になれなくて、今の私の居場所に戻ってくる他なかった。


 ユウは戻ってくるだろうか?

 新年祭の時と同じく今夜はあそこに泊まるだろうか。それから、どうなる?


 私は何をどう誤った?


 足が止まる。

 それまでが嘘みたいに動けなくなる。空を見上げていた、自然と。


 届かない星たち。

 それら一つ一つが寄り添っているようで、実は途方も無い距離があるのだと本で読んだ記憶がある。


 込み上げてくる想いは冷たい。震えてしまう。凍りついてしまう。あの子の涙を思い出すと胸がしめつけられる。痛くて痛くて、どうしようもない。




 首が痺れるほどに夜空を見続けて後、一歩ずつ神彫院へと戻った。


 職員から、私宛てに手紙があるのを知らされる。両親からの手紙。私を気遣ってくれる家族からのあたたかな文面。そこに異物が混ざり込む。三度読んでもそれは変わらない。手からすり抜け、ひらりひらりと落ちていく便箋。


 嘘であってほしい。何もかも。


「ミカエラが…………死んだ?」

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