第36話 特別な音

「わたしの歌はお母さんが教えてくれたものだったんだね」


 一ヶ月前のカシラギとのやりとりを話し終えると、ユウはまずそう言った。

 話の中心は彼女の母であるソレイユのことで、カシラギが抱いていたダフネへの想いはそこにない。嘘をつく気はないがカシラギと私だけの秘密にしておくのがよさそうな部分は省略したのだった。


 ユウがあまり動揺していないところを見るに、既にある程度察していたのだろう。


 あれらの歌が木彫りの神様から知らず知らずのうちに授けられたと信じ込むよりも、生きている誰かから教わったと考えるほうがまともだ。

 その誰かが物心つく前の自分に何度も何度も繰り返し、特別な歌を心の奥底にまで届けてくれたのだと信じられるなら、その誰かがきっと大切な人であるとも気づくに違いない。


「ユウ……。カシラギ先生が帰ってきたら、いっしょに話を聞きに行こう」

「そうしたほうがいいってリラは思うの?」

「あなたが知らないでいる権利を主張するなら、それを尊重する」

「ねぇ、難しい言い方しないで」

「あなたのお母さんのこと、そして森で三人に何があったかをもう知りたくないって、そう思うのならそれでもいいってことだよ」

「嘘つき。よくないって目をしている」


 話し始める前に触れ合った手はそのままだった。ユウは私をぐいっと引っ張り込み、淡い灯りのもとに私の顔をすべて晒し出す。

 互いの顔が近づく。医務室に漂う独特の空気とオイルランプの匂い、それからユウの香り。そこに私も溶ける心地だ。


「リラって変。普段、わたしの心に踏み込もうとしないくせして、いきなりぐっと深いところまでやってきて、選択を迫るんだ。そんなのひきょうだよ」

「ごめん」

「もう一度ちゃんと考えて。わたしがダフネやお母さんたちに起こった出来事を知るのを、リラはいいことだって思うの?」


 囁き声で充分な距離。

 吐息がくすぐったい距離。

 言われたとおりに考える。どう言葉にすればいいのか、ううん、私がどう思っているのか、そこからもう一度。


「――歌姫なんかじゃない。ユウはあの時そう言った」

「うん」

「歌は彫っている時に、自然と溢れ出てくるもので、そこに歌うのが好きとか嫌いとかはない。だよね?」

「嫌いじゃないよ。木と心を通わせているとき、何かいいものを彫り出せそうなときに歌はやってくる。だから、嫌いになれない」

「好きにもなれない?」

「うん、今までは何が何だかよく知らないものだったから。でも……」


 ユウが私に抱き着き、その重心を預けてくる。ベッドにいる彼女と違い、椅子に座る私は倒れてしまわないように力を入れないといけなかった。


「お母さんが遺してくれたのなら、好きになれるかも。ただね、もしも、もしもだよ? ダフネのあの手がお母さんのせいだったらどうしよう」


 ユウは私の胸元に顔をうずめた。

 

 ダフネの右手の欠損、その原因がソレイユにあるか否か。現時点ではどちらともと言い切れない。とはいえ、少し冷めた見方をすると、ソレイユがダフネの利き手を奪ったとしたら、ユウを引き取って育てるだろうか?


 神彫院を去ってから北の森で修行を続けていた、一人の木彫り師であったダフネ。

 先々代の神樹の彫り人であるカシラギが私へと暗に示した当時のダフネの実力を考えれば、その右手は決して安くない。


「ユウがこの先も木彫りと共にあるなら、そしてそこに歌もあるのだとすれば、やっぱり私はあなたが過去に起きたことを知っておいたほうがいいように思う」


 私の言葉にユウはその頭を私の胸から脱して、肩に顎を乗せてきた。


「これまでは何も知らずなくても彫れたし、歌えたよ。ぜんぶ知った時に、彫れなくなったら? それってあり得るって思わない?」

「その時は私を恨むといいよ」

「馬鹿言わないで」


 ユウが私の背中に回していた手の力を強める。しばらくそのまま黙っていたが、不意に力が弱まった。


「……約束してほしいな」

「約束?」

「うん、約束。わたし、決めた。リラの言うとおりにする。待って、この言い方はずるいね。わたしが選ぶんだ。ぜんぶ聞くことにする。そうする、リラといっしょに。北の森で何があったのか」

「そっか」


 ありがとう、と言いかけて、それが何に対する感謝か説明しにくいので、心の内で呟くだけにしておいた。


「それでね、わたしがどうなってもリラはそばにいて。それが約束」

「どうなっても?」


 ユウが私から離れる。また互いの顔を見ることができるように。そうすると、離れたのに近づいた気になる。


「うん。たとえ彫れなくなっても。ずっとずっとそばにいて」

「それは……なんだかもう家族、もしかしたらそれ以上の存在みたいだ」

「ダメかな」


 また発熱してしまったのか、ユウの頰に赤みがさしている。


「私でいいの? ユウが思っているより私は他人に何か与えられる人間では――――」


 こつんと。ユウはその額を私の額に重ね合わせてきた。熱い。


「こうやってリラの温度を感じられればそれでいいの」

「ユウ? 風邪、ぶり返したんじゃないかな。ごめん、無理させちゃって」

「……ほんとに悪いと思ってるなら、今夜はここでいっしょに寝て」


 医務室に備え付けられているベッドは部屋にあるものより大きい。だから、物理的には何ら問題ない。


「朝起きた時、職員に見つかったら怒られなそう。ここは病人のためにある場所だから。今こうして忍び込んで会っているのもよくないことだよ――痛っ!?」


 ユウが額をすーっと離したかと思えば、頭突きをしてきた。そして怯んだ私をベッドに力任せに引きずり込む。

 最初は抵抗しようと考えたが、いたずらに彼女を疲れさせ、症状を悪化させては立つ瀬がないと思い直し、されるがままになった。


「お願い、わたしの心臓の音を聞いて」

「え? あ、うん」

「どう? どきどきしているの、わかってくれるよね」

「……うん。つらいの?」

「そうだね、すこしつらいかも。けど、いつかはリラもどきどきしてくれるって信じてる。ねえ、子守唄を歌ってくれる?」


 寝転がった状態だと歌いにくい。

 でもユウはもう私をがっしり掴んでどこにも行かせまいとしている。私は意を決して、記憶を掘り返してまずは一音、そして一語を彼女のために声にする。


 ユウが穏やかな寝息を立て始めた頃合いを見計らってランプを消した。闇の中、私は彼女の髪をそっと撫で、いつしか眠りに落ちたのだった。





 次の神樹の女神像の代替わりを機に、神彫院が実質的に閉鎖されることになった。

 私の耳にそんな噂が入ってきたのはカシラギが神彫院に戻って二日してからだ。


 王家からの公的な宣言はまだだが、神彫院に帰ってきたカシラギからの情報では、議会の決定は覆らないようだ。

 そうだ、これは王家単独の気まぐれの採決ではない。スクルトラにおける法的措置を伴う変革みたいなのだ。


 帰還したカシラギがそういった事情、つまり王家との付き合いをする中で聞き知った噂や神彫院に関する決定事項を吹聴したのではないはずだ。

 エルダによれば情報の出所は、たしかにカシラギであるが、それが候補生の間にも広まっているのは一部の口の軽い職員のせいなのだとか。


「カシラギ先生が王家からまだこのことは誰にも明かさないようにと口止めされていたら、上にも報告しないわよね。そうよね、リラさん?」

「さあ……とにかく、真っ赤な嘘ではないのは職員たちの態度から察するけれども」

「わたしたちの誰かが最後の神樹の彫り人になっちゃうの?」

「いいえ、私が聞いた話だとそうではないのよ。代替わりの周期が変わるらしいわ」


 十年に一度。

 それが現在の女神像の代替わりの周期だ。

 もし百年に一度にでも変われば、資格を有する乙女であっても、候補生になること自体が不可能というケースが激増するのは当然だ。


 というより、その資格――純潔で清廉たる乙女――だって変わるかもしれない、そうなっていけば神樹の女神像の価値も移りゆくのは間違いない。


 なぜ、この決定が下されたのか。

 周りの候補生たちと違って私とユウ、エルダの三人は面と向かってそれを口にしなかった。すなわち、心のどこかで今回の決定、一つの歴史的転換を受け入れていた。


 私やエルダは前々から話題に上がることもあった世界の移り変わりのことを思い、ユウもなた彼女なりに何か感じ取っているふうだった。一心に目の前の木と対話しているのではなく、一人の少女として揺らぎつつある世界と向き合っていた。


 それでも、そう、それでも私たちは鑿を手に取る日々から逃げ出さなかった。

 エルダは否定したが、ある意味で私たちの誰かが最後の神樹の彫り人になるのだという気がしていた。


 そんな中、私とユウは講評会の後でカシラギを訪ねた。今では袂を分かった三人の過去を、そして真相を知るために。

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