第7話 追憶
デートをしたことがないという、20代の末期癌の女性と擬似デートをしたこともある。小柄で綺麗な女性だった。食事をした帰り、彼女は涙を拭いながら「もう後悔はありません」と語った。
実際その手の頼みは多かった。俺は相手の要求にできる範囲で従い、キス以上のことがしたいと言われれば応じた。抵抗がなかったわけではないが、彼女たちが最後に幸せを感じられるなら、それを与えるのが俺の役目なんだと思った。
ある日、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病を患う50代の女性がやってきた。彼女は最後湘南の海に行きたいと言った。幼い頃、亡き父とともによく訪れた場所だという。
車椅子から海を眺める彼女の姿を見たとき、不意に幼い頃の思い出が蘇った。両親と三人で海を見に行った時のことをーー。あの時二人は砂浜でトンネルを作る俺を見つめ微笑みあっていた。
その時、これでいいのかという疑問が首をもたげた。自分がしていることは正しいとばかり思っていた。生きる意欲を失い絶望に打ちひしがれる人々の、拠り所になるのだとーー。だが親父は、本当にこれを望んでいるだろうか。
死という選択肢しか見えなくなっていただけで、本当は親父は生きたかったんじゃないのか。あのまま生きていても苦しいだけだったかもしれないが、俺は親父にいてほしかった。
誰だってそうなのだ。愛する人の苦しむのを見ているのは辛い。だが、失う方がずっと辛いのだ。
白い砂浜に、黒い点がぽつぽつと落ちる。俺は泣いていた。親父が死んで以来、ずっと泣いていなかったことに気づいた。
波の打ち寄せては引く海を、あまりにも赤い夕陽が照らしていた。
♦︎
翌日俺は、死ぬ前に猫カフェに行きたいという重度の線維筋痛症の70代の女性に同伴した。一人で行く勇気がないから、誰かに一緒に行って欲しいという。
「三年前まで猫を飼っていたのよ。だけど、この通り病気で世話もままならなくなって、友達にあげたの。去年亡くなったんだけどね。たまに無性に触れたくなるのよね」
そのカフェはビルの五階にあった。10匹ほどの猫が暮らしていて、若い女店長が一人で扱っているらしい。女性は最初度々痛みに耐えるような様子を見せていたが、規定量を超える痛み止めを飲んだ後猫におやつをあげたり、猫じゃらしで遊んだりして戯れるうち表情が穏やかになった。
彼女は帰りのワゴンで目を潤ませながら、飼っていた猫の思い出話をしていた。
女性は最後ビルの前で、俺に微笑みかけた。
「最後にやりたいことをやれて、一緒にいたのがあなたで本当に良かった。今まで朝が来るたび絶望してた。夜もそう。明日が来ることが嫌だったの。だけど、もう痛い思いをすることはないと思うとすごく幸せ。今日で全部終わりって思ったら、何もかもが綺麗に見える」
俺は咄嗟にその人の手を取った。細かく震える、筋張った冷たい手ーー。彼女は俺の手をそっと解き、もう一度微笑んで背を向けた。ビルに入る背中を、ただ見送ることしかできなかった。
次の日、俺は仕事を辞めた。
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