縁転堂蒐集録 綯々交々

霜月ヱニシ

孤狼の銀色

 狼が、こちらを見ていた。決して派手ではないけれど、美しい銀色の獣だった。

 それは踏切の向こうで私を待っているような素振りを見せながらも、瞳には軽蔑の色が見えていた。その理由には、心当たりがある。

 昔、ただ岐路があった。そこで選んだ片方の先に居るのが私で、今は選ばなかったもう片方の道を羨んでいる。言ってしまえばそれだけの話だ。だが同時にたった「それだけ」が、私を最も悩ませている枷になり続けているのだ。


「……例えば。好きになった子が目の前からいなくなって、それが原因で死ぬことは間違ってるんでしょうか」

 高校時代の先輩は七年経ってもあまり変わっていなかった。外見もさることながら、当時「阿片窟の主」とまで呼ばれていた妙な視点も健在だ。

「さあね。若い世代の人口が減るという観点なら間違いだが、古代ギリシャから綿々と続く物語を見るにその欲望は極めて普遍的なものだろうよ」

 久しぶりに会った先輩と酒を交わしながら、お互いの知らない時間の話をしていた。彼は結局大学を出て名前のない仕事をしているらしい。中身が多岐に亘り過ぎていて名前をつけるのが難しいそうだ。

 それに比べれば私は普通の事務員に収まっている凡庸な存在でしかなく、中々ちっぽけな存在だという自覚はあった。

「君は上手くやっている。同じ阿片窟、もとい哲学研究部の出とは思えない位だ。それを良しとするか否かはまた改めて決めなければならないが、少なくとも自分の望んだ世界の中に溶け込めているのは悪くない」

 とはいえ、やはり奇妙奇天烈ではあるようだが。彼はそう言ってまたグラスに口をつける。

 昔から私はプリミティブな愛の話が好きだったのだ。単純に知らなかったから、という好奇心も多分に含まれているが、とにかく部室では時間の許す限りそうやって議論を続けていた。先輩は──今考えれば高校生の台詞ではないのだが──軽く目を伏して「別に好いものではない」と言いつつもそれに付き合ってくれた覚えがある。

 そう。本当に、いいものではなかった。禍福は糾える縄の如し、万物には揺り戻しが存在する。

「溶け込めた、というよりも受け入れられただけです。それも偽装した部分が。本質的な自我は迎合出来ないままですよ」

 人を好きになったのは高校を卒業してからだ。それも真っ当なものではない。女の子に告白されて、好奇心で許諾して、気が付いたらこちらの方が本気になってしまったのだ。過去の私なら馬鹿馬鹿しいと笑うだろう。

 そんな風になったら、今度はその幸せを手放すのが怖くなったのだ。嫌われないように、素の自分を偽った。とっくに手遅れだったかもしれないが、とにかく必死だったのだ。

「本来の自分を受け入れてくれるなんて甘言は……ああ、この話はさっきしたか。何度も言っただろう、好いものじゃないと」

 全くもってその通りだった。これは、知らないほうが幸せなことの代表格だ。知ることによって広がった世界からその対象が失われることで、漸く「喪失」を知る。与えられなければそこに存在していた事すら認識できなかった穴が出来てしまったのだ。

 あの銀狼は、その時から現れるようになった。白線の外側に、柵の向こう側に。ゆっくりとこちらを眺めては去ってゆく獣の目は、こちらを詰るようだった。

「……あの時首を吊るのが正解だったんでしょうか。それか、殺しておけばあの子は最後まで私を好きなままだった」

 名前の知らない創作料理をつまみながら、先輩は穏やかに笑っていた。私の言動で彼が驚く所を見たことがないし、それは私以外の誰でも同じだったと思う。想定の外にあるものに対する許容値が高いのか、それとも全て手の平の上なのか。何か、言うなれば神の視点とでも表すべきものが、彼には昔から備わっていた。

「死ぬか、殺すか、生きるか。それだけが問題と──ならまあ、正解は一つ目だろう。羨むのも悔やむのも生者にのみ許された権利だ。死んでしまえば何も気にする必要はない」

 私からやや視線を逸らし、先輩は机を眺める。そして、そこに何かが在るかのような仕草を見せた。無いものの輪郭を迷いなくなぞる。枝分かれする道のようだ。

「……喪失は後に引き摺る。君と俺は似た者同士だ」

 損切が出来ない所も、と彼は付け加えた。その一言で、言わんとする事は伝わる。

 彼女は私から、死ぬ権利をも奪っていったのだ。後悔を重ねてゆく内に、前のような新鮮な悲しみは無くなってしまって、最早厭な気分が連鎖的に厭な気分を呼び寄せているだけ。そこに衝動は欠片もない。私には、今更死ぬ元気もないのだ。

「恋人が出来たら教えてくれ。機を見て首を吊るように勧めてやる」

 物憂げな瞳をこちらに向けて、先輩はそう言い放った。親切心と打算が入り混じったものなのだろう。直接言葉にしなくても、「俺にも同じことをしてくれ」という意思は十分に伝わった。

 さてと、と彼はわざとらしく時計を見る。

「そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか。面白い話を聞いた礼に会計は俺が持つ」

 伝票を持って立ち上がる先輩に、申し訳ないからと声をかけようとした。だが、その一手前に「遠慮はするな」と言葉を置かれる。相も変わらず、会話の中で数手先を行かれているような感覚だ。

「──どうせなら幸福に包まれて死ね。それと、浮いた金でジャーキーでも買うんだな」

 それじゃあ、とだけ残して先輩は去っていった。暫く会うことはないだろうけれど、いつか必ず相見えるという確信があった。その時、互いがどんな生き方をしているかは分からないし、もしかしたらどちらかは棺の中にいるかもしれない。

 何にせよ、その時はきっとどちらかの命が消える。九分一で私だろうという気はする。それはそれで喜ばしいことなのだ。今抱えているこの苦痛から逃れられるだけで、十分に価値がある。

──狼が、車道に立っていた。つまらなそうな顔をして月夜に吼えたそれは、通りがかった車と共にどこかへ消えていった。

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