第13話 慣れない日々のはじまり




 きらきらと、輝く七色の宝石がある。

 綺麗だけど、それはとてもとても傷ついていた。


 宝石は目の前にあって、手を伸ばさなければ儚く消えてしまいそうで。


 そっと触れて、両手で包み込むように胸に引き寄せる。

 美しく神秘的な宝石は、音もなく光の粒となって散り散りに飛んでいった。

 欠片を集めようと、また手を伸ばす。


『この楽園は、私が守る』


 そんなとき耳をかすめたのは、必死に呼び止める誰かの声だった。


 ***


 ぱちんと瞼を持ちあげる。

 目覚めたイリゼが夢うつつに思ったのは、「ここは一体?」というお決まりの寝ぼけ台詞だった。


 すぐにぼんやりとした思考は覚醒し、ここがテゾーラファミリーが所有する地上の屋敷のひとつだと思い出す。

 そしていまいるのは、しばらく滞在することになったイリゼが案内された客室だ。


「重い……」


 じいっと天幕に意識を集中させていたイリゼは、足元から感じる重みが気になった。

 体を起こして確認すれば、黒い毛玉がのしかかっている。


「ぐっすり眠っちゃって」


 お腹を上にして、両脚を広げ、前脚は胸の前で折り曲げた様はさながら猫のようだ。あまりにも無防備な寝姿にふふっと穏やかな笑みがこぼれた。


(まったく起きる気配がない)


 イリゼは安心しきって寝息を立てる時の神獣に触れる。

 小さな角が生えているという特徴はあるものの、この生き物が時を司る神獣と言われても説得力は皆無である。


「クゥイ〜キュルル……」


 寝言のように口をもごもごさせる神獣を横目に、イリゼは近くの窓を見やった。

 外は薄暗い闇に覆われている。領主城での生活リズムが残っているイリゼは、今日も日が昇る前に起床した。


(こんなにゆっくり起きたのは久しぶり。慣れなくて、なんだか目が冴えてる)


 肌を刺す藁ベッドも、すきま風が痛々しく吹く格納庫でもない。

 手触りの良いシーツ、優しく頭を包み込んでくれる枕、あたたかい毛布。何もかもがこれまでとは違っていて戸惑ってしまう。


「あなたはいいね、気ままで」


 すぴすぴと鼻息を鳴らす時の神獣のお腹を指で突っついてみる。やはり起きる気配はなく、右脚をぴくりと動かすだけだった。


(だけど、この子がそばにいると安心するような……変な感じがする)


 昨日、突然に現れたというのに、近くにいると心地がいい。本当に神獣というのは不思議な存在だ。

 

 イリゼは熟睡した時の神獣に毛布の端をかけてやり、自分はそっとベッドから抜け出した。

 素足のまま向かったのは、客室に備え付けられた化粧台の前だ。


(領主城を出たら切ろうと思ってた前髪。ちょっと予定とは違うけど、ちょうどいいや)


 化粧台の棚を引くと、散髪用のハサミがあった。

 手入れの行き届いたゴールド調のハサミを手にして、刃を伸びきった前髪に当てる。


「これ、ぐらい? もう少しかな」


 いつも鼻先あたりで適当に切っていたため、いざ整えようとすると技術の拙さに手が震えた。

 ぐいっと毛束を持ちあげて、鏡に映る姿を確認する。


(これ、ほんとに大丈夫かな)


 一抹の不安がよぎった瞬間、ベッドで眠っていた時の神獣が、「くひん!」とくしゃみをした。

 静かな室内に響いた音は、ハサミを持っていたイリゼの手元を狂わせるには十分で。


「あーっ!」


 シャキ、と。気持ちのいい刃の音と、焦りを含んだイリゼの声が出たのは同時のことだった。



 それからほどなくして、地平の先から太陽が顔を出した。

 眩しい日差しが屋敷を照らし、窓をすり抜け部屋に明かりが広がっていく。


「入りますよ」


 数回のノックのあと、イリゼの部屋に入ってきたのは、爽やかな笑顔をしたナギだった。

 彼は化粧台に座って何やら格闘しているイリゼを見つけると、「おっと?」と首を軽く傾げる。


「様子を見に覗いただけだったのに、もう起きているとは思わなかったな。そんなところでなにを……」


 ナギの入室に気がつかず、声をかけられたことでやっと反応を示したイリゼは、大袈裟に肩を跳ねあげた。


「これは、手元が狂って……っ」


 両手をぴたりと額にくっつけたままのイリゼは、取り繕うようにナギに話す。

 わかりやすく隠した前髪と、台に置かれたハサミ、そして床に散らばった短い毛。すぐにナギは察したようだった。


「前髪切ってたのか。俺を呼んでくれたら、整えてあげられたのになぁ」

「いつも自分で切っていたので、できるかと思って」


 それに、そこまで親しくない人間に刃物を扱われるのも躊躇われる。そもそも誰かに頼るという考えもイリゼにはなかった。


「それで、隠しているってことは上手くいかなかった? どれどれ、お兄さんに見せてごらん」


 ナギは優しげな眼差しでゆっくりと目線を合わせてくる。どうにか他人の目につく前に直したかったのだが、時間切れのようだ。

 観念したように、イリゼはそっと前髪から手を離した。


「……」


 イリゼと目が合ったナギは、二回表情を変えた。

 一回目は、イリゼの素顔を見たとき。

 二回目は、ぴょんと跳ねる失敗した前髪を見たとき。

 その機微を悟られないように微妙に表情を変化させたナギは、手を伸ばして「触ってもいい?」と尋ねてくる。


「……そうだねぇ。これは、うん。見事に跳ねているな。寝癖がついた状態で切った?」

「笑ってもいいんですよ」

「うん?」

「我慢は体によくないので」


 前髪を目にしたナギが笑いを堪えているのに気づいたイリゼは、すっかり羞恥心が消え、すんと冷静に言った。

 かすかに肩が震えているのだ。

 いっそ笑いたきゃ笑えと見つめる。


「……ふっ」


 ぽかんと口を開けたナギは、イリゼの発言と表情に我慢がきかなくなったように激しく吹き出す。せめてもの配慮で顔を後ろに背けているけれど、子気味よく笑っていた。


「あー、もう。体によくないとか、君はたまに大人びたことを言うなー。ごめんごめん、思ったより前髪がカーヴァ草みたいで」

「カーヴァ草」

「こんな感じで、地面から生える曲がった草のこと」


 ナギは指を曲線に描いてカーヴァ草の説明をする。

 どうやらイリゼの前髪のように天に向かって伸びる草のことらしい。


「どうやっても直せないので、もう適当に横にします」

「まあまあ、少しお待ちくださいよ。この真ん中の棚にいくつか髪飾りを用意して置いたんだ。これを使えば可愛くできるよ」

「べつに可愛くはしなくても」

「そう遠慮しないで」


 遠慮ではなく、イリゼとしては視界が良好になるならもうどちらでもいいのだが、ナギにはこだわりがあるらしい。なんだか楽しそうである。


 だけどその前に、入浴をしたらどうかと提案された。

 領主城から連れ出されずっと眠りっぱなしだったイリゼは、昨日も大事をとって体を拭くだけだった。ナギはやんわりと濁してくれているが、それなりに不潔なのだろう。


「浴室はこっちの扉から入れる。天空領もそうだけど、ここではわざわざ湯を沸かして運んだりはしないんだ。結晶の力でお湯が出るようになってる」


 ナギに案内されたのは、白いタイル張りの浴室だった。

 床と同じく真っ白な浴槽と、近くの壁には先端に小さな穴が空いた丸い形の器具、そこを繋げるように細い筒が伸びている。


「……あの、結晶って?」

「天空領でしか採れない特異鉱石のこと。照明や乗り物、多くの道具にもその結晶が使われているんだ。で、使い方だけど……いや、俺がやったほうが早いか」


 壁に取り付けられる細い筒を手に取ったナギは、少し考えたあとでイリゼのほうに振り返った。


「じゃあ、入浴手伝うからまず服を脱いで」

「え……え?」

「女性の手を借りたいところだけど、いまは俺かボス、ダヴィデさんしかいないんだ。ダヴィデさんはともかく、ボスに頼むわけにはいかないから、俺が手伝うよ」


 ナギはあっけらかんとしている。

 彼からすれば幼子の入浴を手伝う感覚なのだろうが、さすがのイリゼもこの親切を受け入れるわけにはいかなかった。


「ナギさんって、私のこといくつに見えてますか」

「俺のことはナギでいいよ。いくつって、年齢のこと? 外見の話? たしか君は十歳って聞いたけど……うーん、見た目は六歳くらいに見えるかな」

「六、歳……」


 はたから見たら六歳に見える十歳児とのこと。


 どうして急にそんなことを? という顔をしたナギに、イリゼは小さくため息を吐いた。

 ろくな栄養が摂れていなかったのだから、体の成長が遅くなっている自覚はあった。手足も細いし、背だって同年齢の子供とは違う。


(そっか、私は六歳くらいに見えるのね。だけど、湯浴みを手伝ってもらうのは嫌だ。歳だって四つしか変わらないのに)


 聞けばナギは十四歳だという。実際のところもっと大人びて感じるが、異性としての意識がこれっぽっちもなくても、その歳の青年に入浴を手伝われるのは複雑だった。


「入浴はひとりでできます。使い方だけ教えてください」

「そ? 一応君はお客様なんだから、遠慮しなくても構わないんだけどな」


 遠慮とかの話ではない、と心の中で言っておく。

 こうしてナギの申し出を丁重にお断りしたイリゼは、浴室の使い方を教えてもらってひとりで済ませたのだった。



「問題なく使えたようで安心した。それじゃあ、こっちにおいで」


 浴室から出ると、ナギがタオルを持って待ち構えていた。


「髪ならそのうち乾きます」

「乾いた頃には体温が下がって、最悪風邪を引いてるよ。それと、もう少し髪も整えたほうがいいかなって思うんだけど」


 そう促され、ふたたび化粧台の椅子に座らされる。

 イリゼが身を固くしていると、ナギは鼻歌混じりに慣れた手つきで丁寧に髪の水分をタオルで取っていく。


「ところで、この傷はいつ頃のもの?」


 鏡越しのナギの視線が、イリゼの背中に向けられた。

 背中というよりは首裏だろうか。衣服からはみ出た鞭の痕が、襟の隙間から見えてしまっていたのだ。


「最後に鞭で打たれたのは、あのパーティーの前日だから……たぶんそれです」

「……。君は、そんなに頻繁に鞭で打たれていたってこと?」

「鞭打ちというより、折檻です。食事抜きはしょっちゅうだったし、押しつけられる仕事もほかの人より多くて。お母さまがいなくなってからは庇ってくれる人がいなかったので──」


 そこで、イリゼはハッとして口を閉ざした。

 なにも考えずにただありのままを答えただけだったが、こういったことはあまりペラペラと話すものじゃない。


(この人だって、反応に困ってしまう)


 居た堪れなさから視線をさ迷わせていると、鏡を通してナギと目が合ってしまった。出会ったときも感じでいたが、少し青みがかった薄紫色の瞳は精彩を放っていてとても美しい。


「君にとって俺たちは、まだまだ得体の知れない人間だと思う。だけど一つだけ、疑わないでほしい」


 ナギは壊れ物に触れるような手つきで、イリゼの髪を梳かす。ほんのりとくすぐったい。でも、不快感はなかった。


「ここには君の身を脅かす輩も、故意に傷つけるような人間もいない」

「……」


 そんな言葉は誰にだって作れる。お世話になると決めた手前、素直に言い返すことは絶対にしないけど、イリゼの心はどこか冷めたものだった。

 

 けれど、そうして自分を律することでイリゼは今日までなんとか生き延びてこれたのだ。それを薄々わかっているような表情をして、ナギは軽く眉尻を下げて会話を続けた。


「一般人や女性、子供に危害は加えない。これはファミリアの掟でもあるからね」

「……ファミリア? ファミリーとは、なにか違うんですか?」

「意味はほとんど同じかな。ただ、うちではファミリーは個々の家門を区別するときによく使われる。ファミリアは全体のこと、直訳すると家族って意味も含まれている」

「家族……。いろいろ決まりがあるんですね」


 へえ、と興味もそこそこにイリゼは「教えてくれてありがとうございます」とお礼を言う。その後、ナギは気を取り直したように話を変えた。


「さて、ダヴィデさんが塗り薬を用意してくれているはずだから、あとで受け取ってくるよ。朝食はここで食べるかい? それとも、食堂にしようか」

「朝食?」


 食べてもいいの? という目をしたイリゼに、ナギは目を細めて頷いた。


「もちろん。君はお客様なんだし遠慮はしないこと。それと言い忘れていたけど、今日から俺が君のお世話係ってことになったんだ。よろしくね」

「……ええ゛」


 思わず渋い声が出てしまった。

 丁寧な扱いに、世話係。イリゼにとっては慣れないことの連続である。

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