肆ノ巻 忘れられない握り飯
「桃太郎殿……」
猿衛門は少し驚いた顔で桃太郎を見ると、太い幹に片手を添えて、そのまま一気に降りてきた。トン、と軽い着地の音に、桃太郎は瞬く。
「思ったよりも身軽なんだな」
「昔取った杵柄というやつですよ。お恥ずかしい」
「いや、立派な身のこなしだ。木登りもお手の物か」
「なにしろ猿の血が流れていますので」
「猿、か」
桃太郎は猿衛門を改めて見た。猿蟹合戦を最初に読んだ時に想像していたのは、目先の欲しか考えていない我儘で浅慮な猿。しかし目の前にいる彼には全くそんな感じはない。
(もう少し、深い話が出来るといいんだが)
先ほど少年とシロを交えて話したのは当たり障りのない話ばかりだった。食べものの好みよりも彼の考え方の指針のようなものがわかれば、少しは真相に近づくかもしれない。
「……俺は、旅に出る時に故郷のおばあさんが持たせてくれたきび団子が、この世で一番美味い食べ物だと思っているんだが」
桃太郎は少し考えて、そんな話を切り出した。猿衛門は黙って頷いている。どうやら聞いてくれるようだと、桃太郎は続けた。
「
残念そうに空の袋を持ち上げ揺らす桃太郎に、猿衛門はようやく口を開いた。
「……先のことはわからぬもの。食べてしまって後悔する事もあれば、取っておいて後悔する事もあるで御座るな」
「そうだな……なら、やっぱり目先の欲に忠実になるべきだったか」
「目先の欲も悪くないで御座ろう。悪い方に転がれば後々深い傷になり得るということを忘れなければ」
そう言って微かに笑う猿衛門は、瞳の奥に消えない後悔の色を滲ませていた。長らく心に引っ掛かっている何かがあるのかもしれないと、桃太郎は続ける。
「忘れられない
「誰しも抜けない棘のひとつくらいは抱えているもの……拙者も例に漏れずで御座る」
猿衛門は自嘲気味に笑った。その視線が地面に落ちたまだ青く固そうな柿に向けられているのを、桃太郎は見逃さなかった。
「熟していない柿の実は、
核心に触れた桃太郎に、猿衛門の顔色が変わる。彼の眉間の皺が深くなったのを見て、桃太郎は刀の柄に手をかけた。
「……
「少年に聞いたんだ。母親はこの木の下で何者かに殺されたと」
「それが拙者であると?」
「そんな事は言っていないが、そうなのか?」
「拙者は只居合わせただけで御座るよ」
「でもお前はあの日の真相を知ってる……違うか?」
月明かりで渋みを増した栗皮色の瞳がぎらりと光ったように見えた。しかし桃太郎が怯むこと無く睨み返すと、その瞳は一度
再び月に照らされた栗皮色は、迷子のように揺れていた。
「世の中には、知らない方が良い事も多くあるで御座る……どうか、そっとしておいてはもらえないだろうか」
「俺なら、大切な人が不審な死に方をしたら真相が何であれ知りたいと思うだろうが……少年はどうだろうな」
桃太郎は刀の柄から手を離し、木の根元に腰を下ろした。猿衛門も未熟な柿の実を拾って少し離れた彼の隣に座り込み、哀し気に瞳を伏せながら、あの日の
◇
出会いの日は、雲ひとつない晴天だった。からからに乾いた喉を水筒の残り少ない水で潤して、若き日の猿衛門はふらふらと真っ直ぐな道を歩いていた。
(……腹が減ったで御座る……)
切っ掛けは数ヶ月前、たまたま入った宿屋で置き引きにあい、全財産を失った事だった。主家を失い浪人となった身で稼げるあてもない。それから数か月経った今も、持っているのは空の水筒と、失った荷物と引き換えに何故か置いてあった一粒の柿の種。
(
卑しい事だと知りながら、猿衛門は生きるために他所の畑の作物を盗んでいた。誇り高く飢えて死ぬか、這いつくばって惨めに生きるか考えて、彼は後者を選んだのだ。
盗みを働いた最初の夜は、戦で初めて人を斬った夜より眠れなかった。しかし慣れとは恐ろしいもの。回数を重ねるごとに罪悪感は薄れていき、いつしかそれが当然のように感じてくる。猿衛門はすっかり、身も心も畑荒らしに成り下がっていたのだった。
(できれば調理しなくても食べられるものがいいで御座るな……)
通りがかった畑には、美味しそうな野菜が何種類も実っていた。猿衛門はまず、真っ赤なトマトに目を付ける。いつものように素早く周囲に視線を走らせると、視界の端に農作業中の女性が映った。
(人がいたで御座るか)
思わず舌打ちが漏れ、邪魔者を見るように視線が鋭くなってしまった。しかし女性は猿衛門のそんな様子を見て、心配そうに近づいてきた。
「あなた、大丈夫?」
女性のその言葉と同時に、ぎゅるるる、と猿衛門の腹の虫が大きな声で鳴った。数日間飲まず食わずで歩いていた彼は、そのことを説明しながら空の水筒を女性に見せる。しかし彼は水を恵んでくれとは言わなかった。浪人になったばかりの頃ならまだしも、乞食のようなボロボロの衣服を纏った猿衛門に世間は冷たい。これまで何軒もの家を回り幾人もの人物と擦れ違ったが、彼に水の一杯もくれる人はいなかった。
「あら! それはいけませんわね。お待ちになって」
しかしこの女性は違った。空になった水筒を猿衛門から受け取るとパタパタと駆けていき、ほどなくそれにいっぱいの水を入れて戻ってくる。それを一気に飲んだ猿衛門に、彼女は今度は竹皮の包みを差し出した。
「うちにはこんなものしかありませんが、よろしかったら召し上がって」
「これは……!」
猿衛門は震える手で包みを受けとり、紐を解いた。中身は大きな握り飯がふたつ、表面が艶々に光っている。すぐにでも口に入れたい衝動を抑えて、彼は女性に念を押した。
「いいので御座るか? 拙者は今、一文も……」
「もちろんですよ。炊き立てじゃなくてごめんなさいね」
猿衛門は首を振ると同時に、握り飯にかぶりついた。程よい塩気がじわりと脳に沁みていく。久しく忘れていた人のあたたかさに、知らず涙が溢れた。
「この握り飯は、拙者が今まで食べたものの中で、最もあたたかくて美味しいで御座るよ」
「いやだ、おおげさですよ」
女性は笑った。そのまま畑の
女性は蟹の血を受け継いでいて両手が鋏に変化すること、ここには嫁いできたばかりで、慣れない畑仕事に手を焼きながらも美味しい野菜を育てようと努力していることなどを聞く。猿衛門はそれを聞いて、彼女のような人たちが手塩をかけて育てた野菜を盗んでいたことを心底恥ずかしく思った。
「で。あなたには何があったのかしら?」
興味深そうに猿衛門を見る眼差しに、彼は視線を合わせられなかった。盗みを働いたことを隠してざっくりとした身の上を話し、最後に柿の種を見せると、女性は瞳を輝かせてそれを見る。
「旅の資金を種に変えていくなんて、随分粋な泥棒さんね。ねぇ、その柿の種。もし良かったらここに植えてもいいかしら?」
猿衛門は二つ返事で種を女性に渡した。出会った記念に、と嬉しそうな女性の顔は日に焼けて黒く、ところどころ土で汚れていたが、明るい太陽のような笑顔は今まで出会った誰よりも美しいと、彼はそう思ったのだった。
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