第8話

「目を覚ませ! おいっ!」


 何度か頬を軽く叩かれて弥生が目を覚ますと、目の前には見目麗しい男性の顔があった。

 肩下まで伸びた黒髪と宵闇のような黒目、紺と青の縞柄の着物を纏った男性の顔をしばらく呆然として見つめていた弥生だったが、やがて意識が覚醒すると慌てて飛び起きたのだった。


「うわぁ!」

「いてっ!」


 急に身体を起こしたからか、上から弥生を覗き込んでいた男性の額と弥生の額がぶつかり合う。

 小気味の良い音に次いで鈍痛が襲ってくると、お互いに額を押さえてその場で苦悶したのだった。


「いったぁい……!」


 痛みからしばらくその場で横になって唸り声を上げていた弥生だったが、先に痛みが引いたのか男性が低い声で話し出したのだった。

 

「こっちの気も知らないで熟睡して……。この上、頭突きをしてくるとは、いい度胸じゃないか……」


 その声に弥生が身体を起こすと、男性は片膝を立てながら壁に寄り掛かって座っていた。着物の裾についた皺を伸ばしながら、男性は意味ありげな視線を向けてくる。


「良い寝顔だったな。手元に筆が無くて残念だった。人の気も知らないであまりにも呑気に寝ているものだから、顔に落書きでもしてやろうと思ったんだが」


 そう言って男は目を細めると嫌味たらしい笑みを浮かべる。弥生は顔が赤く染まっていくのを感じながら、どうにか言い返したのだった。


「あ、貴方が上から覗いていたからっ……!」

「雑魚寝じゃ可哀想だと思って、膝を貸してやった相手に随分な言い掛かりだな」


 先程男性は裾についた皺を伸ばしていたが、そこに弥生が寝ていたのだろう。

 どうやら倒れた弥生を気遣って、今まで膝枕をしてくれたらしい。


「すみません……」

「で、どこから紛れ込んだのかは知れないが、お前が取り込んだ風鬼の魂を返してくれないか。返してくれるのなら、獄卒を呼んで黄泉の国まで送らせてもいい」

「黄泉の国? ここが黄泉の国じゃないんですか? 私は死んで黄泉の国に来たのだとばかり……」

「ここはあやかしたちが住まう世界だ。影のように現世――人間世界の裏側に存在している。人間たちが言うところのかくりよだな」

「あやかし……かくりよ……。貴方もあやかしなんですか?」

「俺は水鬼だ。水を操る鬼と思ってくれていい」


 鬼と言われても、弥生が想像するのは節分の季節や昔話に見かける赤や青い肌をした大男であった。

 長い牙と角を生やして、鋲がついた金棒を振り回し、上半身は裸で虎柄のパンツを履いている荒くれ者。人々の恐怖の存在であり、神としての畏敬の対象。

 少なくとも、不快な顔をして弥生を睨みつけてくるような美丈夫ではなかった。


「角は生えていないんですか?」

「生えているが普段は出さないようにしている。他のあやかしが怖がるからな」

「虎柄のパンツは……?」

「初対面の相手に聞く質問とは思えないが」


 弥生は羞恥で顔を赤くするが、男性は鼻を鳴らすと不機嫌そうに眉を寄せる。


「そっちの質問には答えてやった。今度はこっちの望みを叶えてもらおう。お前が吸収した風鬼の魂を返してくれないか。人間には過ぎた代物だ」

「風鬼の魂って、さっきの緑色の光ですか? ガラスの瓶に入っていた」

「そうだ。あの中に入っていたのは先日亡くなった風鬼――風を操る鬼の妖力だ。妖力は知っているか?」

「あやかしが持つ力ですよね?」

「妖力は俺たちあやかしの魂に結び付いている。心身の成長に比例して大きくなり、傷つき老いると小さくなる。そしてあやかしが亡くなると、霞のように消えてしまう。そんな儚い力だ」

「じゃあ、この妖力は……?」

「……ここ数百年は妖力を持ったあやかしも減ってきている。最近ではあやかしが亡くなると、その妖力が消える前に魂ごと同族の者が預かり、妖力を持たない次代のあやかしに繋げる。お前が吸収した風鬼の魂は、本人の遺言で俺が預かったものだ」

「妖力って、あやかしなら誰もが生まれつき持っている訳じゃないんですね」

「あやかしも年々数を減らして、妖力も衰えてきているからな。今や生まれつき妖力を持っていても弱い力しか持っていない者が大半だ。蝋燭に灯る小さな火が焚き火の炎に敵わないのと同じように」


 男性が立てた指先に小さな青い火が灯る。小指の先ほどの小さな炎はわずかに揺れたかと思うと、あっという間に消えてしまう。

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