第3話

(逃げなきゃ。とにかく、人が多いところにっ……!)


 駅舎の外に出ると狐の嫁入りから遠ざかったからか、雨はすっかり止んでいた。まだ乾ききっていない濡れたアスファルトを急ぎ足で歩きながら、人が多そうな近くの商業施設に向かう。

 何も気づいていない振りをしているが、電車を降りても「視線」は弥生を捉えたままずっと後ろをついてきていた。隙を見て逃げ出そうにも片時も離れてくれず、身を隠そうにも丁度良い場所がどこにもなかった。

 幸いなのは弥生の歩幅に合わせているのか、それとも駅に向かう通行人たちを気にしているのか、駅から離れても一定の距離を保ち続けてくれているところだろう。それでも足を止めてしまったら、今にも襲われてしまいそうな恐怖と殺意を感じていたのだった。


(離れなきゃ。とにかく遠くにっ……!)

 

 目尻に涙を溜めて激しく音を立て続ける心臓の音を聞きながら、足早に商業施設に向かう。そんな弥生に向かって何の突拍子もなく、電柱に付けられていた立て看板が倒れてきたのだった。


「きゃあ!」


 咄嗟のことで避けきれずにその場で頭を守るように身を縮めた弥生だったが、どこからともなく吹いてきた突風でわずかに看板の角度が変わる。工事を知らせる立て看板は嫌な金属音を立てながら、弥生と紙一重の差で隣に落下したのだった。


(あ、危なかった……)


 幸いにも倒れた看板は誰にも当たらなかったが、胸をなで下ろしたのも束の間、悲鳴を聞いた近くの通行人や近所に住む人たちが集まってきてしまう。


「看板がどうして急に……。今朝工事の人が取り付けたばかりなのに……」

「誰か警察に連絡しろ!」

 

 何事もなく通過しようとした弥生だったが、集まった人たちで小さな人垣が出来てしまうと、その場で足を止めざるを得ない。

 これこそが視線の主の思惑だったのだろう。看板を倒して、集まって来た人たちで弥生を足止めする。電車内や道端で目の前にいた弥生が音もなく消えたら異変に気付く人がいるかもしれないが、人垣の中なら急にいなくなっても誰も気に留めない。

 その証拠に、視線の主が刻一刻と近づいて来る気配を感じる。このままここに居たら、捕まるのも時間の問題だろう。


「すみません! 通してくださいっ! すみません……!」

 

 弥生はどうにかして人垣を抜けると、そのまま一目散に走り出したのだった。


(足を止めたから距離が縮んだかも。早く離れなきゃ……!)

 

 得体の知れない視線の主に捕まったら、生きたまま喰われてしまうかもしれない。

 子供の頃から何度もそんな危険に遭遇してきた。捕まったらどうなるのか経験から知っていた。

 普通の人間よりも、あやかしが見えてしまうがために。

 あやかしたちが言うところの「霊力」が他の人間より高いために――。


(なんで、いつもいつもこんな目にっ! どうして私ばっかり……!)

 

 そんなことを考えながら信号をよく見ずに横断歩道に飛び出した時、近くでトラックのクラクション音が聞こえてきた。


「危ないっ!」


 どこからか若い男性が叫んでいるが、それを確認する前に弥生はトラックに轢かれてしまう。ショルダーバッグと眼鏡が宙を飛び、撥ねられた衝撃で息が止まる。地面に叩きつけられて身体から鈍い音が聞こえたかと思うと、これまで経験したことのない痛みに悶絶したのだった。


「ぐっ……!」

 

 痛みでくぐもった声しか出せず、悲鳴も上げられなかった。手足が全く動かないどころか、変な方向に曲がっているような気さえする。

 生温いアスファルトの地面に横たわる身体から赤い液体が流れ出てくると、弥生の嗅覚が濡れたアスファルトと鉄の混ざった臭いを捉えたのだった。


(これ……は……自分……の……血……?)


 自分の身に何が起きていたのか理解したのと同時に眠りに落ちるように視界が暗闇に包まれ出す。トラックから降りてきた運転手が何か言っているが、弥生の耳には届かなかった。他にも事故を目撃した人たちが近寄ってきては、弥生に向かって一心に叫んでいるようだった。


「……っ!」

 

 暗くなる視界を移せば、赤信号が点灯している信号機の隣には人の形をした黒い影が立っていた。


(あれ……は……)

 

 黒い影がいやらしい笑みを浮かべた時、弥生は悟った。

 この黒い影こそ、電車の中からずっと自分を追い回していた「視線」の主だと――。


(にげ……な……きゃ……)


 野次馬は大勢いるが、弥生以外は誰も黒い影の存在に気が付いていないようだった。それなら助けを求めたところで理解してもらえないだろう。


(こんな……ところで……アイツに……喰われる……なんて……い……やっ……)

 

 怒りや悲しみ、悔しさを感じる前に、弥生の意識はそこでぶつりと切れたのだった。

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