第8話 金の卵

(入るか?) 


 ライトを守る外野手が後ろへとダッシュする。打球は失速気味だが、伸ばしたグラブは届かない。


 ゴン、と硬く鈍い音が耳に届いた。


「ギリギリ、か」


 倉敷がそう呟き、長く息を吐き出す。

 強張っていた筋肉が解れたかのように、肩がいつもより下がって見えた。


 マウンドに立つ片崎を見る。彼女の顔はライトスタンドの方向を向いていた。


 一見すると表情は変わらないようにも見えるが、握り締められた手と、帽子のつばから見え隠れする目が、明らかに怒りを溜め込んでいた。


「二人とも、もういい。上がってくれ」


 面白いかもしれないと思った。


 彼女をこのチームに混入させることは、きっとチームにとって利益になる。

 そしてそれは、彼女にとっても悪い話ではないだろう。


「片崎さん」


 いまだマウンドから降りずに、降りられずにいる彼女に近づき、声をかけた。

 彼女がこちらに振り向く。心なしか目付きがより険しくなっているように見えた。


「改めてお願いするよ。君に、このチームのバッティングピッチャーを務めてもらいたい」


 彼女の口が一度、小さく開いた後、再び閉じた。

 抱え込んだ怒りをゆっくりと外に吐き出すように、握りしめられていた手が緩められる。

 長い瞬きの後に一歩こちらに近づき、微笑んだ。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 その微笑みはどこかぎこちなく、吊り上げられた口元からは未だに怒りが滲んでいるように思えた。

 



「とまあ、出会いはそんな感じかな」


 なるほど、木庭さんがそう小さく呟く。


「話を伺う限り、まだその頃の彼女は、ここまで突出した投手ではなかったんですね」


「そりゃそうですよ。その時点では彼女はろくに実戦経験のない、16にもならない学生だったんだから。そんな状態で活躍できるほど野球は、独立リーグは甘くない。光るものがあったのは間違いないですけどね。それでもそのときは確か、変化球ひとつとっても一応のカーブくらいしかなかったはずだ」


「でも彼女はそこから化けた」


「そうですね」


 頷き、投球中の片崎さんに視線を移す。


「彼女はそこから本当に伸びた。元々野球に、実戦に飢えていたみたいですしね。バッティングピッチャーとはいえ、生身の打者を相手にできることは、彼女にとってなによりの糧だった」


 話の最中、木庭さんは特に口を挟まなかった。ただこちらの話に耳を傾けていた。


「どうすればバッターを打ち取れるのか、バッターは何を嫌がるのか、何が打てないのか。それを読み取る嗅覚と、それに必要なものを身につける素質が、彼女にはあった」


 それは俺にとって、チームにとって望ましいことだった。


「彼女が伸びるのに比例して、チームも強くなりましたよ。打つのが困難な投手がバッティングピッチャーをしてくれるんだ、これ以上の練習はない」


 俺が言いたいことを言い切ったのが伝わったのか、先ほどまで何も言わなかった彼女がひとつの疑問を投げかけてきた。


「どうして彼女を試合で使わなかったんですか? 規則的には、選手として登録することはできたんでしょう?」


「耳が痛いですね……」


 木庭さんの声に責める意図は感じられなかったが、自分自身の、実戦で彼女を使ってみたかったという思いを見透かされた気がして、返答に困ってしまう。


「言い訳をするなら、彼女が高校を卒業したら選手として入団させたいとは考えていたんです。それからでも遅くないってね。彼女がここまで化けたのも、ここ最近の話ではありましたし」


「まあ、うちとしてはありがたい話でもありますけどね。他の球団にマークされずに済みますし」


「本当に彼女を取る、いや」


 そもそも、だ。


「彼女を取れるんですか?」


 俺の言葉を受けた木庭さんの表情は明らかに優れない。苦虫でも噛み潰したような顔をそれでも無理やり笑顔に変えた、みたいな笑みを浮かべたまま、彼女は答えた。


「それこそ耳も頭も痛い話ですが……なんとかしますよ。目の前にある金の卵をみすみす見逃して、何のためにスカウトやってるんだって話ですし」

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