第36話 サンシンしろ!
私は普段、野球中継なんか見ない。
だけど同級生がそこに映っていれば、気にならないはずがない。
ましてその子が、プロ野球初の女性選手となればなおさらだ。
画面の向こうの彼女とは、特別親しかったわけじゃない。だから彼女がプロ野球選手になったと初めて知ったのも、画面越しだった。
去年の十月、ちょうど受験の真っ只中。つけっぱなしにされていたテレビが映すニュース番組から聞こえてきた名前に心臓が跳ね、思わずテレビの方へと向き直った。
片崎渚、女子選手初のプロ野球選手に。
高校の同級生が、史上初の出来事を成し遂げたと知れば、誰だって驚くと思う。
これがうちの高校は野球の名門で、指名されたのはすでに学校中で注目されたスター選手だった、とかならまだ心の準備というか、あの子ならおかしくないみたいに思えるんだけど、実際には私が卒業した高校の野球部は強豪でもなんでもなかったはずだし、彼女は野球部ですらなかったはずだ。
そもそもプロ野球選手って女性でもなれるんだ、なんてそのときに初めて知った。女子プロ野球ではなくプロ野球だって、キャスターの人がわざわざ強調していたから、男の人がやっているプロ野球のことで間違いないだろうし。
あれ? 女子も男子と同じプロ野球選手として出場できるのなら、高校の野球部だって、女子も入れたのかな。
……そんなわけないか。彼女が野球部だったなんて話は聞いたことがないし、もし本当にそうだったのなら彼女は、いつもあんなに退屈そうにしていた訳がない。
たまたまかもしれないけれど、授業中や休み時間に彼女の様子が目に入ったときはいつも、窓越しに空を見ていたような気がする。
私は彼女じゃないから、見ているのが本当に空だったのかはわからないけれど、窓の外を眺めていることが多かったのは事実だ。
モデルみたいに背が高くて、綺麗な顔立ちをしていたから人目を引いていたけれど、彼女の周りに人が集まるところは見たことがない。
近寄り難い雰囲気をまとっていたかと言われると、それも少し違う。
自分からはあまり喋らなくて、笑っているところもほとんど見たことがないけれど、話しかければ普通に応えてくれるし、態度も刺々しくもなければ冷たくもなかった。
ただ口数が少なくて、最低限のことしか話さない子だったけど。
だけどそんな彼女も、プロ野球選手になったというニュースの後はさすがに目立った。目立たない方がおかしい。
とはいえクラス内で広がる反応は、歓喜や祝福よりも困惑や戸惑いの方が大きかった。
それはそう。だってクラスメイトのほとんど、おそらくは私を除く全員が、彼女が野球をしていることさえ知らなかったのだから。
それでも今話題になっている人を周りが放っておくわけがなくて、今までとは比べ物にならないくらい、彼女は学校中の人から話しかけられるようになった。
彼女の周りにテレビや新聞の記者らしき人が、インタビューのために寄りつくことも珍しくなくて、ときには学校の中にもその人たちは入り込んだ。
彼女はいつもそれを鬱陶しそうな目で見つめながら、ときに温度のない声で答え、ときに適当な理由をつけて断ろうとした。ほとんどの場合、離してはもらえなかったみたいだけど。
学校の生徒たちはそのうち飽きて、それか記者の人の質問に巻き込まれるのを嫌がってか、彼女に構わなくなった。
学校側も当然、記者の人たちを規制した。少なくとも学校の中には入らないでくれと、言い渡した。
そのうち、彼女はいろんな人に付きまとわれることはなくなった。
でもそれは私の目の前での話で、私の知らないところではいろんな人に追われていたのかも知れない。それは、分からない。
その程度の関係でしかないのに、こんなに彼女のことが気になるのはたぶん、彼女がクラスメイトだったからとか、有名人だったからとかだけじゃなくて、彼女が投げている姿を見たことがあるからだ。
公園、だと思う。端っこの方に滑り台やブランコといった遊具のある場所に彼女はいた。
だと思う、なんてあいまいな表現になってしまうのは、公園には必ずと言っていいほどあるそれらの遊具がやけに端に、邪魔にならないように隅に寄せられた、みたいになっていて、まるでそれらの遊具が主役じゃないように見えたから。
その代わり、いや代わりではないかもしれないけど、公園の真ん中近くが変に盛り上がっていて、彼女はその上に立っていた。
なにをしているんだろう、なんてつい眺めていた私の視線に彼女はきっと気付いていなくて、高々と右足を上げた。
えっ、なに? そういえば右手に何かを着けている。
なんて言うんだっけ、割と最近見た気がする。テレビ? そうだ、確かお父さんが見ていて、私は興味がなくて横目に通り過ぎただけだった。
野球だ。野球のグローブ。
野球中継で、画面に映る選手が着けていた。うちの学校の野球部やソフトボール部の子たちも部活中に着けているそれを、彼女も右手にはめていた。
上げていた足が前へと踏み込まれて、それから左腕が振り下ろされた。
その先の手から何かが離れて、金網にぶつかるまでが私には、真っ直ぐな白い線に見えた。
ボールを投げたんだ、なんてことにさえ私はすぐには理解できなくて、すぐにそのボールが飛んでいくスピードに驚いた。私だったらまず金網にさえ届かないと思うのに、同級生の女の子がこんなボールを投げていることに、ただただびっくりしてしまった。
ボールを投げ終えた彼女がボールを取りに金網の方へ走っていって、なんだかその姿が、申し訳ないけどちょっと間が抜けて見えて笑いそうになってしまう。公園でひとり壁当てをしている、小学生の男の子みたいだ。
でもその後すぐに慌てた。彼女がこちらに振り向いたら、すぐに気付かれてしまうと気付いて。
私が見ていたことは、見ていたと知られることは、なんだかいけないことのように思えて、私は慌ててその場を離れた。なにも見ていませんよと主張するみたいにわざとゆっくり歩いて。
そのときのことはもちろん、彼女に話したことはない。それどころか学校では、ろくに言葉を交わしたこともなかったと思う。
だから彼女は、私のことなんて覚えてさえいないかも知れない。だけど私はその日以降、公園にいた彼女の姿が頭の片隅のどこかに残っていた。
残っていたということを、このニュース番組で思い出させられた。
「この子、すごいな」
そんな一方的な思い出に引きずられていた私より、お父さんの方がずっと真剣にテレビを見ていた。
しみじみと呟かれた言葉に私も頷く。
「うん、すごいよね。こんなでっかい男の人だらけの中で、同じ場所のスポーツ選手になれるなんて」
「うん。それも、もちろんそうなんだけど」
けど、なんだろう。私は画面を見つめたままのお父さんの言葉の続きを待った。
「先発初登板、それもプロ野球一年目の、ちょっと前まで高校生だった選手が、ここまで1点も取られないで完封しようとしてる。三振も十個くらい奪っているし、男子とか女子とか関係なく、いきなりこれだけのことができる選手なんて、ほとんどいないんじゃないかな」
お父さんがいつもより少し早口で言う。
だけど出てくる単語は私の知らないものばかりで、頭の中がモザイクのスタンプで埋め尽くされたような気分になってしまう。話の半分も理解出来なかった。
「カンプウ? サンシン?」
「完封は1点も取られずに一人で試合を投げ切ること。三振は3つ目のストライクを、バットに当てさせずに奪うことだよ」
「ストライク? ってなに?」
「ああそうか、そこからか……」
呆れたような態度に少しむっとしたけど、その後に続くお父さんの説明を大人しく聞いた。
ストライクゾーンっていう仮想の枠の中に、3回ボールが入ればアウト1つ。
4回外れたらダメで、バットを持っている人がルイに出てしまう。
ストライクゾーンから外れても、バットを持っている人が空振りをしてしまったらストライク。
バットを持っている人が打ち返した場合は、バウンドせずに守っている人が取れればアウト、そうでないまま打った人がルイまで到達すればヒット、とかなんとか。
他にもいろいろ、画面の選手を指差しながらお父さんが説明してくれたけど、分かったような分からないような、野球ってややこしいんだなってことは、なんとなくわかったけど。
とりあえずこのバッターをアウトにしたら、カンプウ?を達成するらしくて、それはどうやらすごいことらしい。
どうせならそれを、サンシンでやってみせて欲しい。この子がカンプウするところを、一番すごいらしいアウトの取り方で見てみたい。
画面の向こうでは、片崎さんの指からボールが離れて、ボールを受け取る、キャッチャーってポジションの人に向かって突き進んでいた。
その映像を見ながら私は、心の中で呪文みたいに叫んだ。
バッター、サンシンしろ!
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