第26話 一軍
試合の後、監督室を訪ねにきた片崎は、しばらく先発を、できれば登板自体を控えさせて欲しいと言い出した。
「なんだ、どこか痛めたか?」
俺の問いに、片崎は首を横に振った。
「どこも痛めていません」
「なら、どうして」
「今のままだと、先発して九回まで投げ切るのに、体力面での不安があるので」
苦虫を噛んだという表現のよく似合う、忌々しそうな態度で絞り出すようにそう言ってくるものだから、思わず吹き出しそうになる。それを我慢するのにはずいぶん難儀した。ガキか、こいつは。
いや、叱るべきなのだろうか。そんなことはお前が決めることではないと。
……いいや、いい。自ら足りないものを直視し、補おうとしているのだから、それを止めるべきではないだろう。
「好きにしろ。その間に他の選手が頭角を現して、お前が一軍に上がれる芽がどんどんなくなってもいいのなら、だが」
「構いません」
「構わないってお前」
「一軍に必要だと思わせるピッチングさえできれば、嫌でも一軍に上がれるでしょう?」
「…………」
言葉に詰まってしまった。今この部屋には俺と片崎しかいないが、ここに中溝が居ればまた叱り飛ばしていたのではないだろうか。それとも案外、感心したりしたのだろうか。いや、それはないか。
実際、俺はなんて言ってやればいいのか。その性格を直さないと苦労するぞ、か。また、誰を上に上げるか決めるのはお前じゃない、か。
いや、いいか。
「分かっているならいい」
こいつの言っていることは、間違ってはいない。
「お前の言う通り、実力さえ示せば一軍に上がれるチャンスは常にある。それができなければ上がれないのはもちろん、すぐにでもクビだ。そのことは分かっているな?」
「もちろんです」
「ならいい、好きにしろ。完投できる体力が出来たと判断したら言え。そのときにお前が投げる席が空いているかは分からんが」
分かりました。その言葉を最後に、片崎は部屋を後にした。
あれ以降、片崎がどのような練習を行なっていたか、詳しく知っているわけではない。
ただ全体練習とは別に、坂道ダッシュやタイヤ引きのようなダッシュ系のメニューを中心に、フィジカルトレーニングに重きを置いた練習をしている姿は、何度か目にしていた。
それに加え、十球ほどノックを受けた後にすぐさまブルペンで二十球ほど投げ込み、それが終わればまたノックと、これを交互に繰り返すといった、なにやら忙しない練習も行なっているようだった。
付き合わされたコーチやスタッフからすればたまったものではないだろうが、新人がよくここまで躊躇いなく人を使えるものだと、なんだか変に感心してしまう。
自身の身体に負荷をかけるためか、トレーニングの後や、ノックの後に投げ込みをする姿が目立つ。
オーバーワークにならないかは気がかりだったが、どうやらチームのトレーナーと打ち合わせをしながら練習しているようなので、過度な心配は不要そうだ。
片崎が登板を控えさせて欲しいと言い出してから三ヶ月ほど経った頃、
「次の試合、先発として使ってください」
監督室に乗り込んできた片崎が、俺に言い放った。
「それを決めるのはお前じゃないと何回言えば……まあいい、体力は出来たということでいいな?」
「はい」
「考えといてやる」
また不服そうな顔をしやがるかなと表情を窺ってみればその逆、口の端が僅かに吊り上がっている。笑っていた。
舌打ちのひとつでもしてやりたくなる。こいつは分かっているのだ。俺がこいつを、本人の準備さえできればすぐにでも、また先発として使おうと考えていたことを。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「まだ決めてない。用が済んだのならさっさと戻れ。俺もお前の相手ばかりしていられるほど暇じゃない」
「はい」
目尻に挑戦的な笑みを残したまま、片崎は部屋から立ち去っていった。
次の試合、俺は片崎を先発させた。
結果、あいつは完投した。
9イニングを短打3本に収める、無四球無失点。
球数は百球を超えていたが、それでもなお一試合を完璧に、息切れすることなく投げ切った。
まだ長いスパン、1シーズンを通して投げたわけじゃない。
だが、ある。こいつには先発投手としての適性、長いイニングを投げ切る能力が。
試合中、中溝はその光景を黙って見つめ続けていた。
試合が終了し、選手がいなくなった後も、いまだにグラウンドを見つめていたそいつの背中に向かって、俺はわざとからかうような調子で言った。
「なっ、大したもんだろ。俺の先見の明も」
「うるせえ。お前だって半信半疑だっただろうが」
振り返り、嫌そうにそう口にしたあと、呟くように、
「頑張ったんだろ、あいつが」
なんて、珍しく素直に選手のことを褒めるものだから、俺も驚いてしまって、
「どうした、風邪か?」
などと本気で聞いてしまった。
「失礼すぎるだろ、お前」
呆れた表情を顔に張り付けたまま、中溝が言葉を続ける。
「あのな、俺だって一応、このチームの投手コーチだ。ここにいる投手の様子には常に目を光らせている。あいつがどんな練習をしてきて、その成果がどのくらい出ているのかも、ある程度は把握している。少なくともお前よりかはな」
「言葉に棘がないか?」
「それに気づける程度の感覚はあるようで安心したよ。実際、監督なんてやっていると選手全員の様子を見るなんて、物理的にできはしないんだろうが」
「まあ、な」
本人はフォローのつもりだろうが、そこを言われると少し胸が痛い。
「実際、お前の目から見てどうだ。このまま先発で投げさせるべきだと思うか?」
俺がそう聞くと中溝は一瞬、思案するように口を噤んでいたが、
「球数やコンディションに気を配る必要はあるが、このままやらせていいように思う。自分から登板を控えさせてくれと言ってくるようなやつだ、身体の不調や故障があれば自分から言いに来るだろう」
と、声にも表情にも淀みなく、そう言った。
「そうか」
頷きながら、思う。
近いうちに、本当にやってくるかもしれない。プロ野球初の女子選手が、一軍の先発マウンドに上がる瞬間が。
先発へと配置転換してからも、片崎は好投を続けていた。
球数に関しては毎試合、百球前後で降板させていた上、他のリリーフ投手にもなるべく経験を積ませたい思惑もあって、完投させることはほとんどなかったが、防御率はうちの先発陣の中では一番よかった。
本人は完投させてもらえないことに不満げな様子を見せてはいたが。
片崎を先発に移してからひと月ほど経ったある日、監督室にいた俺の右足のポケットが震えた。
球団に支給されたスマートフォンを手に取る。ディスプレイに表示されたのは、一軍監督の名前だった。
「もしもし」
『今、大丈夫か?』
少し掠れた、低く響く声。
「大丈夫ですよ。試合も今終わったところですし。そもそも大丈夫でないのなら、携帯を取れませんよ」
そりゃそうか。電話の向こうで男はそう言って、くつくつと笑う。
言葉少ななのも、妙に人に気を使うところも、その笑い方も、現役時代から変わっていない。
「それで、どうしたんですか、
ああと呟く声には澱みがあり、続く言葉もどこか重たげだった。
『リリーフ陣の疲労が限界だ。何人か下で休ませる』
「分かりました」
一軍の状況はこちらでも耳に入っている。今年は先発、リリーフ問わず、少なくない数の怪我人が出ている。どうしてもその分の負担は一軍で投げ続けている投手たちにかかってしまう。
「それで、代わりに誰を上げますか?」
そう聞くと、南都さんの口から数人の名前が挙げられた。
三人までは読み上げるようにスラスラと名を呼んでいたが、その後に続く選手に対しては、躊躇うような間があった。
「例の女の新人ピッチャー、いるだろ」
「片崎ですね」
「そいつを上げる。ペナントレースの終盤に一年目の新人を上げるのも怖いがな。しかも……」
しかも、なんだろうか。
女子選手だから。プロに入るまで、まともな実戦経験がなかったから。球が遅いから。
思い当たることが多すぎて、どれを言おうとしているのか検討がつかない。全部かもしれない。
けれど結局、南都さんからその答えは返ってこなかった。
「まあいい。今のところ成績は、二軍の投手陣の中で一番良いのだろう? 上げる理由としてはそれで十分だ」
「いつから上げますか?」
「明日からだ」
「ずいぶん急ですね」
「それだけブルペンのやりくりに難儀しているんだよ、こっちも」
選手たちにも伝えておいてくれ。そう言い残して、南都さんからの通話は切れた。
まあ、遅かれ早かれ、いつかはこうなったのだろう。
俺は携帯をポケットにしまい、監督室の椅子から立ち上がった。
あいつはここで、十分すぎるほどの実績を上げてきた。
空きがある以上、そんな選手を使わないわけにはいかない。特にあいつの場合は、入団経緯も存在自体も異例だ。
異例だからこそ、目立つからこそ上げずにはいられない。上げずにいれば不審に思われる。周囲に、メディアに、ファンに。一軍で使わないのに、どうして取ったのかと。ただの客寄せパンダだったのかと。そうなれば上げざるを得ない。どれだけ抵抗や不安があろうとも。
もっとも今回の場合は、単純に戦力として求められているようではある。あくまで藁を掴むような心境の上ではあるかもしれないが。
グラウンドまで足を運ぶと、片崎の姿が見えた。その背中に声をかける。
「片崎!」
「はい」
振り返る片崎の顔に疲労の色はなかった。
今日も先発として登板しており、少なからず疲れはあるはずだが、そんな素振りは見られなかった。わざと強がっている部分もあるかもしれないが、これから上に上げる身としては、その様子がありがたくもあった。
「お前、明日から上に上がれ」
睨んでいると言ってもいいくらい真っすぐにこちらを見つめる片崎に対し、こいつが今一番望んでいるであろう事実を伝えてやる。
「一軍だ」
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