夏バテのひととの遭遇

 小さい頃、今よりも少しだけ息苦しかった。

 片親でもあれこれと言われるのに、私には両親がどちらもいなくなってしまったものだから、周りからはずいぶんと腫れ物に触るような扱いを受けたのだ。

 授業参観のときに、派手な化粧をしている他の子のお母さんに混じって、綺麗な服を着て立っているおばあちゃんが申し訳なくって、何度も何度も授業参観のプリントを隠していたというのに、どういう訳だか見つかってしまい、にこにこ笑いながら立っていた。

 周りからおばあちゃんを見られるのが嫌だった。

 大好きなのに、周りに下手に気を遣われるのが嫌だし、口さがないお母様方に噂を立てられるのが嫌だし、逆に授業参観に参加しなければいいやと、どうにか風邪を引いて休もうとしても、健康優良児の私はあの頃からちっとも風邪を引かなかった。

 それでも。私はおばあちゃんとスーパーで買い物をして、ゆるゆると坂道を登るのが好きだった。


「今晩のご飯どうしようか」

「せやねえ、今日は鮭が安かったし、南蛮漬けにしよか」

「やった、南蛮漬け好き」


 そんなとりとめのない話を、ずっと続けていたんだと思う。

 私が東京に就職を決めたとき、何度も何度もおばあちゃんに大丈夫かと聞いたけれど、おばあちゃんはコロコロと笑うばかりだった。


「行っといで、はっちゃん」


 気付けばおばあちゃんは、私よりもずいぶんと小さくなってしまっていた。

 あのとき、もし私がここに残るって決めていれば、もう少しだけ一緒にいられたんだろうか。もう少しだけおばあちゃんに甘えていられたんだろうか。

 仏壇のおばあちゃんは、卒業式に私と一緒に撮った写真を、伸ばして使っている。


****


「うーん……」


 お盆のせいか、久し振りにおばあちゃんの夢を見てしまった。

 私は仏壇の水を替えて、手を合わせる。

 大丈夫、バイトだけれどちゃんと働いている。寂しくなって東京から引き上げてきたけれど、どうにか上手く生活しているから。

 そう手を合わせてから、急いでトーストと冷凍フルーツのスムージーで朝ご飯を済ませ、汗で流れないように手早く化粧をしてから、店に出るべく電動自転車を漕ぎはじめた。

 普段はモーニングのためにもう少しだけ早めに出るけれど、昼から混雑する割には、モーニングのお客さんは減っている。お盆の季節はさすがに少しは出勤のお客さんが減っているらしかった。

 朝の今の時間帯だけは、電動自転車でもスムーズに移動ができる。休日では自転車で人混みを避けるのは困難だから、降りて自転車を押していくのがほとんどだ。

 少し自転車を漕いだだけで汗ばむのを感じていたとき、ふと人が倒れているのを見た……って、はあ!?

 思わずブレーキをかけて、自転車から降りる。

 人通りがないために、今のこの一本道には私と倒れている人しかいない。

 ええっと、倒れている人は揺すっちゃいけないんだったよね。とりあえず、意識があるのを確認するのが先か。前職でやった救急研修が、まさか神戸に戻ってから役に立つ日が来るとは思わなかった。


「あ、あのう……大丈夫ですかー!?」


 あまり大声にならないよう、それでいて倒れている人に聞こえるよう、どうにか声を絞って聞いてみる。倒れているのは女の人だった。髪はセミロングで、癖毛なのか湿気であちこちにうねっている。

 着ているのは勿忘草わすれなぐさ色の浴衣で、海老茶色の帯を太鼓結びにして留めている。見てくれは涼しそうな色合いだけれど、浴衣は見た人を涼ませるもので、着ている人が涼むものではない。倒れて伸びた手は驚くほど白く、ますますもって朝とはいえどこれから暑くなる季節で倒れていたら大丈夫なのかと心配になる。

 私の声に、彼女の伸びた手が白魚のように跳ねた。


「うう……み、水……」

「水、ですか? ちょっと待っててくださいね」


 うーんと。たしか熱中症で倒れた人に、ミネラルウォーターを飲ませるのはNGだったっけか。経口飲料水なんて、ドラッグストアが開いてなきゃ売ってなかったと思うけど。トアロードのドラッグストアに当たりを付けて、私は慌てて自転車を走らせる。

 幸いというべきか、ドラッグストアは観光客目当てに早朝から開店していた。慌てて経口飲料水のペットボトルを買うと、引き戻して倒れたまんまの彼女に声をかける。


「水、ですよ。飲めますか? 起こしましょうか?」

「だ、大丈夫です……すぐ、起きますからね……」


 彼女はよれよれと体を起こすと、私が蓋を開けて差し出した経口飲料水を大きく音を立てて飲みはじめた。最終的に一気飲みした彼女は「ぷはあ!」と先程とは打って変わって威勢のいい声を上げた。


「ぷはあ……ありがとうございます、危うく打ち上げられたくらげになるところでした」

「はあ……よかったです」


 変わった例えだなあと、私は彼女をまじまじと見る。癖毛に真っ白な肌が気になるところだけれど、整った顔の人だなとはよくわかる。

 彼女はにこにこと笑う。


「ありがとうございます、親切な方。人情の国というのは遙か昔だったと思いますが、まだまだ世の中捨てたものではありませんね?」

「いえ……いえ……それでは私、そろそろ出勤ですから」

「ああ、申し訳ございません、お仕事中に。あとひとつだけよろしいですか?」

「まあ、大丈夫ですが……」


 もし普段の出勤時間だったら、そもそも倒れている彼女を見捨てて不死者カフェまで走らなかったらいけなかったと思うけれど。今日はいつもより遅めだから、あとひとつくらいの要件なら大丈夫だろう。

 私はそう高を括り、彼女に話しかけると、彼女はにっこりと笑った。


「はい、不死者カフェ八百比丘尼はどちらでしょうか?」

「え……」


 まさか。と思って私は彼女を見た。

 普段会う不死者のひとたちは、どのひとたちも人間社会に溶け込み隠れ住んでいる印象だったけれども、このひとは時代錯誤を隠そうともしていない。


「私のバイト先ですが……」

「まあ! では案内してくださる?」

「ま、まあ……どうぞ」


 私は自転車を押しながら、彼女を店まで案内することとなってしまったのだ。

 どうしよう、四月一日さんになんと説明するべきか。倒れていた彼女を放っておくこともできないしなと、ぐるぐるぐると頭の中が渦巻くものの、今はそれどころではない。


****


 店に入ると、ちょうど四月一日さんが一さんが昨晩置いて帰った料理を元に、ランチのメニューを書いているところだった。今日は生ハムのワッフルサンドがおいしそうだなとメニューを眺めていたところで、四月一日さんはこちらを見て、少しだけ驚いたように目を見開いた。


「おはようございます、八嶋さん……あと」

「え、ええっと……そこで倒れていたので、介抱したら店に連れてくることになったんですが……」

「満、お久し振りです!」


 そんな、名前呼び。私はびっくりして連れてきた彼女を見ていたら、四月一日さんは困ったような顔をした。


「あなた……仕事中にまた倒れていたんですが、毎年行っているでしょう、いくら他の国よりもましだからといえど、日本も年々夏は暑くなっていると」

「まあ、失礼しますね。お互いお盆は忙しいだろうし、情報交換と一緒に英気を養いに伺ってあげたと言うのに!」


 彼女はぷすーっと頬を膨らませる。どうも親しい様子だし、四月一日さんが不死者だということは普通に知っているみたいだった。

 しかし彼女、忙しいひとなの? 私は彼女をまじまじと見ていたら、四月一日さんは呆れた顔で彼女を見た。


「……八嶋さんを騙くらかしておいて、名前も名乗ってないんですか」

「まあ、親切な方とは思ってますよ! ほんとほんと。ありがとうございます、名乗るのが遅れましたが、私は無為むいすもも、死神を務めています」

「えっ」


 あまりにもあっけらかんと言うので、私は口をあんぐりと開けてしまった。

 今までもあれこれと変わった不死者には出会ったし、これ以上驚くこともないだろうと思っていたけれど、ここに来て死神を名乗るひとに会うなんて思いもしなかった。


「え……つまり、夏場は人が大勢死ぬから……人の魂を狩りに来たとか……そんな感じなんでしょうか……?」


 死神で思いつくのは、どうしても黒マントに鎌を持ったおどろおどろしいものなんだけれど、浴衣姿に清楚に決めている無為さんからは、どうもこちらのイメージとは一致しない。私のピントの外れた言葉に、無為さんは不思議そうな顔で四月一日さんを見た。


「今でもこんな風評被害が死神に纏わり付いてますの?」

「まあ……あなた方は落語にもなってますし、そういうのが人間にとっての一般的な印象だと思いますよ」


 そうだったのか。落語についてそこまで詳しくない私がそう思っていたら「そうですねえ」と無為さんは小首を傾げる。


「もちろんそういうことをする係の方もおられますけど、それが全てではありませんよ。お盆の季節に、あの世からこの世に里帰りされる皆さんが大勢いらっしゃいますので、橋渡しをするのが私の仕事です」

「あ、ああ……」


 あの世とこの世にかかる川の船頭。それだったらなんとなくわかるような気がする。絵本にもそういうシーンあったし。

 私がようやく納得したところで、ぐー……と間抜けな音が響いた。その発生源は、無為さんからだった。彼女は照れて小首を傾げる。


「今は自由時間だから、今の内に食事を摂りたいのだけれど……注文してもよろしい?」


 照れた顔で無為さんが尋ねるので、盛大に四月一日さんは息を吐いたあと、私を手招きした。


「彼女、カフェ知識が大正時代で止まっていますから、できる限り穏便にメニューを教えてあげてください」


 それ、いくらなんでも止まり過ぎではないかと思ったものの。時間感覚が麻痺しているのが不死者ならば仕方がないのか。私は「わかりました」と頷いて、メニューを携えて「席は自由にどうぞ」と案内することにした。

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