4‐14.魔法にかけられて
そして迎えた七日後の最後の晩餐の夜。
ラーストチカは衣裳部屋で様々な服を試して見つけた、最高に姫君らしい装いで食堂に向かった。
健康的な肉付きの身体をきらびやかに包むのは刺繍入りのサテンとビロードを使った真っ白なドレスで、腹部はコルセットで細く締め、二重に重ねて広げたスカートの引き裾が優雅で美しいシルエットのものである。
胸元には幾重にも連ねた粒ぞろいの真珠のネックレスが揺れ、紅玉をはめ込んだ銀細工がドレスを飾る。
さらに編んで結い上げた豊かな銀髪は小さな宝石を散りばめたヘアネットとヴェールで包み、色白でそれなりに華のある顔は大人っぽく要所を抑えた化粧をしてもらった。
(結構、似合ってるんじゃないのかな)
幼いころから思い描いていた通りの華やかな衣裳を着た高貴な自分の姿を鏡で見て、ラーストチカは上機嫌になった。
そしてつやつやとした赤いエナメル革の靴の履き心地を楽しむように歩いて、衣装部屋を出る。
ドレスのコルセットは少々きつかったが、その締め付けられる感覚も自分を自分ではない何かにしてくれるような気がして心地が良かった。
こうしてすっかり浮かれた調子のラーストチカを、案内役の年若い女官はあくまでも粛々と誘導した。
「こちらが、晩餐をご用意した部屋でございます」
女官は魚と流水の文様が彫られた扉を開けて、ラーストチカにお辞儀をした。
中庭を囲む渡り廊下は夕闇の中にあって、部屋から漏れる明かりが行き先を照らしていた。
「ご案内、ありがとうございます」
ラーストチカは女官にお礼を言って、食堂に入った。
外は夜気が突き刺すように寒かったが、中の室内はいくつもの燭台によってまぶしほどに明るくなっていて、火炉によって全体が暖められていた。
部屋の中央に置かれた円卓には真っ白なテーブルクロスが敷かれ、その上にはさらにまた華燭が燦爛と光り輝いている。
そして円卓の横には、普段通りの鴉青色の服を着た仏頂面のルェイビンが立っていた。
「今日がお前の最後の晩餐だから、お前の国の形式でお前の国の料理を用意してある」
ルェイビンはぶっきらぼうに、円卓の上に置かれた銀食器を指し示した。
そこに並んでいるのは箸という名の二本の棒ではなく、ラーストチカが半年間正しい使い方を学んだナイフやフォークである。
「わざわざのお気遣い、いたみいります」
ラーストチカは習った作法をやっと活かせることを内心とても喜んで、ルェイビンがひいてくれた椅子に座った。
卓上にはまだ何の料理も載っていなかったが、一旦部屋を出たルェイビンが戻ってくるとまず最初の一品目が置かれた。
「お前の国では、こうして食べさせたい順番に料理を運ぶそうだな」
そう言ってルェイビンが持ってきたのは、銀色の薔薇のように丸めて盛りつけられたニシンのマリネと野菜のピクルスの飾り切りだった。
「これは全部、食べてもいいものなのですか?」
「食べてもいいに決まっているだろう。お前のための料理なんだから」
あまりに綺麗で手が込んだ料理だったので、ラーストチカはもしかすると食べられない飾りが混じっているのかもしれないと思って尋ねた。
しかしルェイビンは馬鹿馬鹿しいことを訊くなといった様子で、ラーストチカにさっさと食べ始めることを勧める。
「ではお言葉に甘えて、いただきます」
目の前にあるものが本当に全て食べ物だとわかったラーストチカは、手を組んで食前の祈りを済ませてすぐにフォークとナイフを手に取った。
そして薄く食べやすい大きさに切り揃えられ巻かれたニシンの身にフォークをぷつりと刺して、口に運ぶ。
そっと噛むと舌の上に広がるその酸味のある甘さを、ラーストチカは思わず黙り込んで味わった。
(ニシンって、こんなに美味しくなる魚だったんだ)
酢で身の締まったニシンのしっかりとした食感を、ラーストチカはよく噛んで味わった。
寒い日に暖かい部屋で冷たいマリネを食べるのは、また格別の美味しさがあった。
ニシンのマリネは家庭でも作られる料理であり、ラーストチカの実家の食卓にも並ぶ献立だったのだが、今食べているものはそれとはまったく違うものだった。
ルェイビンが作ったニシンのマリネはもっときちんと小骨が丁寧に取り除かれていて食べやすくて、味付けも胡椒や香草が使われた複雑な風味がある。
淡泊な魚の旨みが凝縮されたその味は、上品なグラスに注がれた透明で香り高いハーブワインともよく合った。
「このニシンはすごく、美味しいですね」
ラーストチカは空のグラスを円卓に置いて、二枚目のニシンをフォークを伸ばした。
「そうか。これ以上に食べたかったら、後で余りを出してやる」
ルェイビンは少し自慢げに微笑んで、再びグラスにワインを満たす。
ニシンだけではなくてキュウリやニンジンのピクルスもよい具合に酢に甘酸っぱく漬かっていて、瑞々しい歯触りが快かった。
こうしてラーストチカは、すぐに一品目の皿を綺麗に食べ終えた。
「次はスープだ」
マリネの皿を下げて二品目にルェイビンが持ってきたのは、小さな人の耳のような形をした小麦の団子が入った真っ赤な色のスープだった。
(これは見たことがないスープだな)
スヴェート公国もそれなりには国土の広い国なので、ラーストチカの知らない料理があるのは不思議ではなかった。
故郷にはない色彩で彩られたスープをじっと見つめて、ラーストチカはまずは目で深皿の中身を味わった。
スープには爽やかな香りのするディルの葉が散らされていて、緑が赤色を引き立てている。
ラーストチカは真っ白なドレスを着ていたので、汚さないように気を付けることにした。
そしてラーストチカは一口目に、スプーンでスープだけをすくって食べてみた。
温かなスープは何かの野菜が溶け込んだ優しい味わいで、赤色はその野菜の色だと思われた。
二口目には、小さな団子を食べてみた。
スープの旨みが染み込んだつるりとした小麦の皮の中には、刻んだキノコや塩漬けのキャベツが入っていて、食感も楽しく食べごたえがあった。
(団子もスープも、全然食べたことがない味だけど美味しい)
自国の味のはずだけど異国の味のように知らないその料理を、ラーストチカは感慨深く堪能する。
赤いスープにはライ麦でできた黒パンも薄くスライスされて添えられていて、ちぎってひたして食べてみると硬めに焼かれたパンの酸味とスープの甘みがちょうど良く口の中で重なった。
ラーストチカは基本的に、美味しいものがない貧しい土地で育った。
だからルェイビンはラーストチカの生まれた国のご馳走を作ってくれているらしいのだが、ラーストチカにとっては何もかもが食べた覚えがない味である。
しかしどの料理もとても素敵なものだったので、ラーストチカはもうすぐ死ぬ前日の夜に、知らなかった味を知ることができた幸運を心行くまで噛みしめた。
「今から肉料理を持って来るが、パンのおかわりはほしいか?」
「はい、お願いします」
パンが足りるかどうかをルェイビンに聞かれて、ラーストチカは悩むことなく追加を頼んだ。
こうしてスープ皿が空になったところで、ルェイビンは肉料理の皿を新しいパンと一緒にラーストチカの前に並べた。
「これはそばの実入りの豚肉の丸焼きだ。ソースはコケモモを使っている」
ルェイビンが軽く説明をした通り、その皿からは香ばしく豚肉が焼けた香りがしていた。
こんがりと炙られ切り分けられた豚肉の真ん中には茹でた蕎麦の実の詰められていて、黒くとろみのあるソースが弧を描くようにかかっている。
「すごく良い匂いのする、お肉ですね」
さっそくフォークとナイフで一口の大きさに切って、ラーストチカは豚肉を食べた。
(うん。いい感じの焼き加減)
ラーストチカは素晴らしく調理された濃厚な豚肉の幸せな味に、舌鼓をうった。
塩胡椒で下味がつけられた豚肉は、皮はパリッと焼けている。その一方で中は赤身も脂身も口の中でほろほろと崩れるようなやわらかさで、滲み出る肉汁も肉そのものであるような気がするほどに濃密な旨味があった。
中に詰められている蕎麦の実は飴色になるまで炒めたタマネギが混ぜられていて甘く、ふっくらとした一粒一粒に滋味が感じられる。
その二つの素材の味をまとめあげるのが、読めない文字のように見事にかかったコケモモのソースだった。その蜂蜜が加えられたコクのある風味は、バターと塩胡椒で焼かれた豚肉と香ばしい蕎麦の実を綺麗に繋げて、ほどよい甘じょっぱさで調和させている。
(この豚肉も、ルェイビンが屠って調理したのかな)
ラーストチカは、厨房で見たルェイビンの姿を思い出しながら、豚肉を美味しく口に運んだ。
食事が他の生き物を殺して食す場である限り、食卓には常に死が隠されていた。
犠妃となった自分にも庖厨官であるルェイビンに殺される瞬間がそのうち訪れるのだと考えると、彼が作った料理を食べるだけでも胸が何かの期待にざわつく気もした。
それはなし崩しにルェイビンと口づけを交わしたせいかもしれないと、ラーストチカは思った。
(だけどルェイビンの料理は、少し美味しすぎるような気もするな)
幸せなはずの心にちょっとした違和感を覚えながら、ラーストチカは傍らに立つルェイビンを横目で見た。
するとルェイビンも、ラーストチカの方を見下ろしてきた。
「何か食べたい料理が、他にあったか」
「いえ、あなたの料理はすごく美味しいなって思ってたんです」
まったく別のことをルェイビンに尋ねられて、ラーストチカはグラスのワインを飲んでごまかした。
(そうじゃなくて、多分、ルェイビンの料理は夢じゃなくて、ちゃんと現実のものだから私は……)
ラーストチカはルェイビンの料理を楽しみながらも、どこか自分の望むものとの間にずれを感じていた。
おとぎ話には、人食いの悪い化け物がいる。人間をスープにして、煮込んで食べてしまう魔女がいる。
ラーストチカもまたこれから、おとぎ話のように煮込んで焼かれて食べられる。
しかしラーストチカを殺して料理するらしい男の料理は、おとぎ話にしてしまうにはあまりにも手が込んでいて繊細で、美味しかった。
そのことについて深く考えれば、もしかすると自分は夢から醒めてしまうのかもしれないと、ラーストチカは思った。
(だけど私は、ルェイビンが語ったおとぎ話のお姫様は、屠殺人に想いが通じたから望んだ通りに殺してもらえたんだって信じてる。たとえルェイビンが信じていなくても)
ラーストチカは、遠い昔に自分と同じ運命を辿ったはずの姫君のことを考えた。
おとぎ話の姫君が幸福だったのか、それとも不幸だったのかは、本当にいるかどうかも怪しい姫君自身以外は誰も知らない。
だがそれでもラーストチカは、自分は絶対に求めたものを手に入れるのだと信じていた。
(スーシャは私に、お前はお姫様になんかなれないって言った。でも私は、こうしてちゃんとお姫様として食事をしている)
豚肉をナイフで切って口に運びながら、ラーストチカは遠く隔てた故郷で別れた幼なじみの少年のことも思い出す。
ラーストチカは姫君として死ぬのを楽しみにして、故郷を離れた。しかしスーシャはラーストチカが異国で殺されるのを許せず、犠妃になることを選んだラーストチカを責めた。
二人の間には、決して埋まることのない深い氷の裂け目があった。
(スーシャが怒っていたのは多分、スーシャは真っ当に現実を見ていたから。だけど私は、おとぎ話に生きていたい)
ラーストチカは物語の中で生きて死ぬことを願って望み、そして選んだ。
だからラーストチカは、ルェイビンの料理の美味しさの裏にある現実には目をつむることにした。
どんな殺され方をするにしても、本物の姫君になることができるのなら、ラーストチカは何をされても構わず苦痛を受け入れる。
嘘を排除してテーブルの上の布の結び目を解けば、主や客人のために用意された食卓は空になってしまう。
だから本当のことについて考えないことにしたラーストチカは、おとぎ話を信じる少女だった。
とろけるようにやわらかい豚肉を飲み込み、ラーストチカは横を向き隣に立っているルェイビンの顔を再び見上げる。
「たとえ恋ではないにしても、私のことを何かしら特別だと思ってもらえましたか」
ナイフとフォークを一旦止めて、ラーストチカはお互い恋ができるかどうか試した結果をルェイビンに尋ねた。
「まあ、少しはな」
ルェイビンは特に何か考えた様子もなく、硬い表情を変えずに答える。
それはささやかすぎる回答である気もしたが、ラーストチカは好意的に受け取って微笑んだ。
「あなたは私の、少しよりももっと特別ですよ」
スーシャもルェイビンも、ラーストチカの信じるおとぎ話を否定した。
しかしラーストチカは、彼らが何も信じていないからこそ、彼らのためのおとぎ話になりたかった。
「きっと私を、素敵な料理にしてくださいね」
ナイフで切った豚肉にフォークを刺しながら、屠殺人に恋した姫君と同じようにラーストチカは頼んだ。
たとえ本当の出来事がどうでもよいことだったとしても、心を込めれば何かしら輝きを与えることができるのだと、ラーストチカは青い瞳に華やかな食卓を映して信じていた。
「ああ、わかった」
ルェイビンはしばらくの間を置いて、ゆっくりと頷いた。
切れ長のその目は、ラーストチカをただ見ていた。
冷たいのか、優しいのか。
面倒なのか、やる気があるのか。
その大きく鍛えられた身体の内にある感情が何なのかは、やはり馬鹿なのかもしれないラーストチカにはわからない。
だが同時にラーストチカは、わかる必要がないとも思った。
ラーストチカは姫君の身代わりであり偽物であるが、ルェイビンに殺されて料理され大帝の宴に捧げてもらえれば、永遠に本物になれる魔法がかかるはずである。
その特別な結末を迎えることができれば、ラーストチカはもう何も求めるものはない。
(だって私はずっと願っていたから。誰かがあの凍土から私を拾い上げて、何もない人生に特別な意味を与えてくれることを)
最初に会ったときからルェイビンは、ラーストチカが偽物の姫君だと気づいていたが、それでも本物として扱い望みを叶えてくれた。
その想いや理由が何であれ、ラーストチカはもてなし続けてくれたルェイビンに感謝していた。
そしてラーストチカは再び、フォークとナイフを手に食事に戻った。
しばらく美味しく食べていると豚肉の皿もパンの皿も空になって、ルェイビンが新しい料理の載った皿を持ってくる。
「このたれは少し辛いから、気をつけろよ」
「ありがとうございます。私は、辛い物も甘い物も好きですよ」
ふっくらと蒸された魚の切り身を前に、二人は料理をする者とされる者としてとして穏やかに話す。
ルェイビンは豚肉の次には、白身魚の蒸し焼きに山わさびのクリームを添えたものを運んできてくれていた。
澄んだ宝石のように照り映えたその一品の輝きに、ラーストチカは瞬きをする。
そうして燭台に照らされた暖かく明るい部屋の中で、ラーストチカは終わりを迎えて眠るその時まで、世界で一番に幸せな食事を続けた。
(これでもまだものたりない気がするのは、きっと贅沢がすぎるよね)
ラーストチカの胸の奥には、透明になりきらない何かが残っている。
しかしその想いに向き合うことは、数々のご馳走を前にしたラーストチカにはできなかった。
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