第3話

 黒い森が、黒い森と呼ばれている理由を、ナギは知らない。この地がそのように呼ばれていることを、人目を避けてこの地で隠れるように過ごすようになった後から、人づてに聞いただけだ。

 枯れ果てた、異様な巨木の遺骸が密集するだけのこの地を、森と呼ぶのが正しいのかもよくわからない。ここから遠く離れた場所から俯瞰すると、森のように見えるのかもしれない。

『人間の踏破できる場所ではないのでは?』

 昨夜の男の問いかけが不意に脳裏を過ぎった。何故だか、言葉をぶつけられた直後に感じた不快感は今はわき上がってこなかった。

 ナギが連れている男たちが出入りしている人里では、もはやそんな疑問を持つ人間すら存在しない。ナギの存在は、周囲ではそこそこ知られているようだ。――不本意ではあるが。

 知らなければ、彼が疑問に思うのも当然だろう。

「……人間であれば、無理だろうな」

 小さく呟くと、自嘲気味に笑いながら、ナギは左腕をさすった。革の下で、その腕が、固く強ばっているのがわかった。

 ナギは右手を上げて、自分の後方を歩いている男たちを一度立ち止まらせた。

「今から木が一体、死ぬ。下がっていろ」


 男たちが「ナギ」と呼ぶ女首長の言葉を、理解できなかったのはワンだけだった。

 この集団にいきなり拉致され、散々な扱いを受けたかと思えば、彼の目的地であるワガノア王国まで送り届けてくれると言い出す。この女首長が、一体何を考えているのか、そもそも最初から、ワンにはわからない。

 しかも今、自分たちがいるのは、大陸中に「前人未踏の呪いの地」として知られている「黒い森」だ。

 ワンの生まれ育った小さな邑ではその地を、世界のあらゆる魑魅魍魎が跋扈する不浄の地だと言い伝えられていた。この大陸の人間は誰も、そこへは決して足を踏み入れないのだと。

 その「黒い森」に、見知らぬ男たちに強引に拐かされ、やってきた。

 森というからには木が多く密集しているのかと思っていたが、想像していた姿とは様相が違っていた。樹木は確かに、地面に多く立っている。しかし、ワンがこれまでに故郷でみたことのあるものとは大きさがまるで違う。幹の周囲は、成人した大柄の男たちが7、8人、手をつないだぐらいの長さで、見上げればその木の天辺は、気が遠くなってしまうほど遠く、視認できないほどだ。

 だが、それらの樹木が異様だと感じさせる一番の要素は、その大きさではない。

 樹皮はまるで色を失い、乾き、どの枝からも葉という葉が一切生えていない。それ故に、これだけの木々がひしめき合っているのに、空の色は常にはっきりと見えている。

 地面にも、草も苔も生えなければ、そこに住まうような小動物も虫たちも見あたらない。樹上を寝床にする動物や鳥たちも同様だ。

 恐ろしい怪物が住むと聞いていたその森は、足を踏み入れてみれば、不思議なほど生命の気配のない世界だった。

 ――木が一本死ぬ、とは、どういう意味だ? この中にまだかろうじて成長している木があって、それが弱って倒れるということなのか? ナギという女はそういった現象が予言できる巫女か何かなのか?

 ワンは、集団の前方で足を留めじっと立つナギの後ろ姿を、そして彼女が従える男たちの様子を注意深く観察する。男たちは、ワンのように困惑している様子はなかったが、何かに備えるような緊張感を湛えていた。

 辺りは静かだった。「森」と呼ばれる場所がこんなにも音を失うことなど、ワンの知る世界ではあり得なかった。何の生命も湧いていない森だ。そして今は一筋の風も吹いていない。

 そのとき、ワンの眼前が突然、大きく傾いだ。

 眩暈が起きたのかと思った。事実、足下が揺らいだように、立っていられなくなったのだ。しかしその直後、それが自分の身に起こっていることを正確に表現するものではないと、直感した。

 無限に広がる巨木のせいで、昼日中でも薄暗い黒い森の中に数日いたはずなのに、ワンの眼球はするどい大量の光に刺激されていた。思わず顔を庇うようにして、瞼を強く閉じる。

 目を閉じたはずなのに、眼前に広がるのは、暗闇ではなかった。

 地平線が見えた。ワンは故郷の邑でも、この黒い森に至るまでの旅路でも、大地と空の境界を目視したことはなかった。

 青空はどこまでも深く濃い青色で、なだらかな地平には何もない。草木も、動物も、人工物も。その大地は、砂で覆われていた。赤みの強い茶の、乾いた砂だ。ただ砂だけが、延々と、空と交わる果てまで続いている。

 天から降る光がそれらの砂を強く照らし、そしてその光を砂が強く跳ね返して、ワンの目を鋭く刺した。

 幼い頃、寝物語で聞いたことがある。遠いどこかの国にはそんな風に、ただ砂が広がるだけの不毛の地があるのだと。それを「砂漠」と呼ぶのだと。

 ワンはその言葉を思い出すとともに、空を見上げる。雲一つない群青の天の頂上に、白い円の影が一つだけ、浮かんで見える。


 ――ああ、月が、ひとつ。


 そう思った刹那、ワンの鼓膜を轟音がつんざいた。

 自分が見たその光景が幻であったと気づくのと、何か重く大きなものが崩壊する音が鳴り響くのと、足下が激しく振動し立っていられなくなるのはすべて同時だった。

 周りの男たちが何をしているか、様子を伺う余裕すらない。ただその場で倒れないように構える姿勢を取ったが、揺れ動く大地に抗うことはできず、そのまま腰を地面に打ち付ける。その衝撃で空を見上げる形になった顔面に、何かがぽろり、と落ちた。

 乾いた、細かく軽い塵のようなものだった。視界を埋め尽くすほど大量の数が絶え間なく上空から落ちて、さらさらとワンの肌の上を落ちていく。

 その光景に見とれていたつもりはない。ただ、次に起きた出来事に咄嗟に対応できなかったのは事実であり、失態だった。

 ナギがはじめに「木の死」を予告した方角から、今度は地面を覆い尽くすほどの何かが、地鳴りのような轟音とともに、こちらの方向へ滑り落ちてきた。

 滑り落ちてきた。まるで、雪崩のように。

 ワンは困惑する。自分たちは今朝からずっと、傾斜のない平坦な道を歩いていたはずだった。どうして、ナギのいる方向からこんな風に、何かが崩れ転げ落ちるように流れてくるのだろう。

 疑問が脳裏を過ぎったが、それよりもこの状況から逃げ出さねばならない。

 ワンはその場から立ち上がろうとして、足を取られた。無様に腰を打ち付け、それから驚愕する。

 いつの間にか、謎の塵芥のようなものが周囲に降り積もり、ワンの足下を捕らえていた。

 自身を取り囲む謎の堆積物を、ワンは一掴みする。一瞬、そのさらさらした感触が、幻の光景で見た砂漠の砂を思わせた。すぐに勘違いとわかった。乾いた木の破片、おがくず、土、細かい小石、そういったものが混ざっていた。

 とにかく今は、この状況から脱せねばならまい。今までずっと腰に帯びていた刀剣はあったが、ナギの手下に捕らえられたときに取り上げられて、ワンは今、丸腰だった。

 両足はぬかるみに深くはまったときのように動かない。塵の一つ一つは極めて微小で軽かったはずが、積もると同時に急速に圧縮されていくのだ。何かに捕まろうと腕を振り回すも、宙を掻くばかりだ。そうする間にも塵は凄まじい勢いで堆積してゆき、すでに胸元まで迫っていた。

「くっ……」

 肺が圧迫され、呼吸が苦しくなる。脂汗がにじみ出る。ワンは歯を食いしばる。首もとまで迫りそうな塵を、手でかき分ける。それも追いつかず、口元までが埋まり、腕も自由を奪われた。

 ――このままでは……

 首をそらし、鼻先を高くし、目を見開いて辺りを見回す。ワンの周りには誰の姿もなかった。ただただ一面褐色で埋まる世界。

 ついに顔面もすべて覆われそうになった瞬間、耳元で、苛立った女の声がした。

「世話が焼けるな」


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