第5章 イーチ・ホープ ー⑤

 深夜。

 久鎌井と綾香は、共にアバターの姿で、“アラクネ”が現れるであろう田中家の前にいた。

 二人に見えるところではあるが、鏡谷と日比野は車内に控えていた。

 説得が失敗に終われば、彼らが飛び出してくる算段だ。

 久鎌井はその家の、“アラクネ”の標的であろう少女がいる部屋の窓を見つめていた。

 その決意に満ちた白騎士の横顔を、綾香は見つめていた。

 彼女はここに至るまでに、ある確信を得ていた。

 何故、自分があんなにも久鎌井のことが気になって仕方なかったのか、彼の決断を、行動をこの目で見たいと思っていたのか。


 綾香は、彼に自分の姿を重ねていたのだ。


 しつけの厳しい前時代的な家に生まれ、多くのことを仕方がないと諦めなければならない自分の環境と、“アラクネ”を救いたいと思いながらも、救える可能性も少なく、仕方がないと諦めてしまった方がいいのではないかと思える久鎌井の状況を、重ねていたのだ。

 そして、綾香は、もうすでに諦めてしまっている。その道を選んで今生きている。だからこそ、久鎌井の決断が気になった。彼は自分と同じように諦める道を選ぶのではなく、立ち向かっていく姿を見せて欲しいと、期待していたのだ。

 今、彼女の隣に立つ久鎌井の姿は。その決意に満ちた力強い姿は、まさに綾香が憧れる姿だ。


 それは綾香が、本当はなりたかった姿。


 それは今まで気づかなかった希望だった。


 綾香の家は一般的に言って裕福である。親の決まりを守ってさえいれば、おそらく大した苦労を経験することなく、生活することができるだろう。別に命がとられるわけではない。少し我慢するだけで、初めから諦めてさえいれば、それほど苦しむことはなく、それなりに楽しい生活が送れるのだから。

 でも、それで本当に満足していたのならば、綾香が“ピュグマリオン”のアバターの所持者となることもなかっただろう。


 本当は自由にしたかった。

 何かやりたいことがあるわけでなく、ただ自由でいたかった。

 そんな希望が、確かに自分の心の中に存在していた。


 でも、それを今まで簡単にあきらめてきたのが綾香だった。

(わたしにはできなかったことを、彼はやろうとしているんだ)

 その隣にいたい。

 力になれるのならばなってあげたい。

 強い思いが、熱い思いが、綾香の胸を満たしていた。



 — * — * — * —



 鏡谷と日比野は、車内にいた。

「望……どういうつもりだ」

「彼が、説得するらしい」

 日比野の質問に、鏡谷その一言だけ、返す。

「そういうことじゃないだろう」

「……」

「だんまりか、俺たちの目的、忘れたわけじゃないだろう?」

「ああ、分かっている」

「なら、さっさとやっちまった方が早いだろう」

「しかし、彼女にはまだ正気を取り戻す可能性がある」

 そう言いながら、その可能性はほぼゼロであろうと、鏡谷は思っていた。


 ただ、彼の真っ直ぐな言葉に、心を動かされてしまった。


「そんなことは、関係ねえだろう。俺たちの目的には」

「……そうだな」

「分かってんじゃねえか、命令違反だぞ」

「……そうだな」

「はっ、言っても無駄か。お優しいことで。あとで親父に何言われても知らねえぞ。それに、俺はそんなに長く待つつもりはない」

 今にも飛び出していきそうな様子の日比野。

 そんな彼を力づくで留め置くことは、鏡谷にはできない。


(正念場だよ、久鎌井くん)


 鏡谷は、心の中で久鎌井にエールを送っていた。

「……来たな」

 日比野が、そう呟いた。



 — * — * — * —



 まるで、影が盛り上がったかのようだった。

 細く、黒いものが地面に集まったかと思うと、急速に絡まりあい、大きな蜘蛛の姿になった。

 それを見て、アバター姿の二人も身構えた。


「来たよ、久鎌井」

「ああ」


 綾香の言葉に、久鎌井が小さく頷いた。


「月野さんだね」

 久鎌井の言葉に挨拶を返すかのように、その蜘蛛――“アラクネ”が手を挙げた。


 しかし、次の瞬間にそれは殺意の鎌となって振り下ろされた。


「久鎌井!」

 綾香の叫び声よりも先に、久鎌井は反応していた。

 彼の左腕に突如出現した“アイギスの盾”が、“アラクネ”の腕をしっかりと受け止めている。

「待ってくれ、話を来いてくれ」

 久鎌井の言葉は届かないのか、“アラクネ”の攻撃は止まなかった。

 どれだけ彼が呼びかけても、“アラクネ”の攻撃は止まず、昨日のようにひるむ様子は一切感じられない。

 まるで何も考えないようにするために、がむしゃらに腕を振り回しているような勢いに、見た目アルマジロに過ぎない綾香は、巻き込まれないようにするのが精いっぱいだった。


 しかし、次の瞬間。その目を疑った。


 急に、久鎌井の盾が消失し、その腕を下げたのだ。


「何で!」

 斜めに振り下ろされた“アラクネ”の腕は容赦なく彼を吹き飛ばし、久鎌井の体が壁に叩きつけられた。

「ぐあ!」

「久鎌井!」

 綾香は駆け寄ろうとするが、久鎌井は手をかざしてその動きを制した。

 彼はどんな思惑で盾を引いたのか、綾香には分からなかったが、不思議なことに“アラクネ”が彼を追撃することはなかった。

 今の“アラクネ”は、明らかに動揺しているように綾香には見えた。


「僕は……俺は、久鎌井友多だ。覚えているかい?」

 久鎌井はゆっくりと立ち上がり、言葉を続けた。


「ごめん、君に謝りたい。俺は君が無視されているのを、いじめられているのを見て、助けられなかった。ごめん」

 久鎌井は構えることはなく、ただ真っ直ぐに自分の言葉を口にしている。彼にとって目の前の黒い蜘蛛は、“アラクネ”ではなく、昔助けたくても助けてあげられなかった少女なのだ。


「久鎌井くんのこと、覚えているわ……でも、謝ってもらったって……」


「しゃべった!」

 とてもか細く、弱く、自信のなさそうなその声は、確かに少女の声色だった。


「それでも、謝りたい。俺は、自分がからかわれるのが嫌で、いじめられるが怖くて、あのとき何もいえなくなってしまった。月野さんはずっと、辛い目にあっていたのに、自分可愛さに手を差し伸べて上げられなかった」

「……そうよ。でも、あなたはマシな方でしょ? 一度、あの三人に言ってくれたもの。だけど、他の人は誰も助けてくれなかった。クラスメイトも、担任も、先生も、親も、道を行く人も名も知らない人も犬も猫も何もかも!」

 言葉に激情が混じり、途中から言っていることが支離滅裂になる。その口調に同調するように、蜘蛛の体はまるで膨張でもするかのような怒気をはらみ始める。


(危ない!)

 口をついて出そうになる言葉を、両手を口に当て抑え込むようにして、綾香はこらえた。

 今は久鎌井が自分の中にあるものを吐き出そうとしている。そして、彼女に伝えようとしている。それが彼のしたいこと、しなければならないことなのだ。

(だからわたしは邪魔しない。見ていることしかできないし、見ていたい、見届けたい)


「絶望した、わたしは絶望したの。憎いの、全てが憎いの、特に、わたしのことを嫌ってくれたあの三人が、わたしが無視され始めたきっかけを作ったあの三人が! 憎くて憎くてどうしようもないの!」

 “アラクネ”の激情がさらに昂ぶる。

「駄目だ!」

 久鎌井も、その激情から引かず、真正面からぶつかっていく。

「何が駄目なのよ!」

「まだ君には良心があるだろ。だから、ずっと一人で、眠りにつきながらも葛藤していたんだろ!」

「もう止められないわ!」

「いや、止める。俺が止める。あのとき、俺は手を差し伸べることができなかった。だから今、手を差し伸べるんだ! だから……終わりにしよう」

 久鎌井が、『俺』の一人称とともに感情を露わにし、“アラクネ”に手を差し伸べて近づこうとしたそのとき――


「時間切れだ」


 久鎌井と綾香が、その声の方向に振り替えった。

「日比野さん……」

 男は、その右腕に、アバターの力を顕現させて立っていた。顔に、加虐の笑みを浮かべて。

「待ってくれ日比野さん、まだ話は――」

「俺の中では終わった」

 久鎌井の言葉も虚しく、日比野の腕が無造作に振るわれた。

「くそっ!」

 久鎌井は盾を出してそれを防ぐ。

「ちょっと、もう少し待ってよ」

「邪魔だ、小動物」

 日比野の腕が、綾香に襲い掛かるが飛びのいて何とか躱した。しかし、そのあまりにも剣呑な視線に、綾香はそれ以上動けなくなってしまった。

「お前はそこで見ていろ」

 それ以上は綾香の存在に気を掛けることもなく、日比野は久鎌井に攻撃を仕掛けた。


 久鎌井は盾を掲げて、それを防ごうとするが、ぶつかる直前に日比野の腕が五本の枝に分かれた。そして、盾を迂回するようにして、彼を無視して、“アラクネ”に襲い掛かった。

「ちくしょっ!」

「久鎌井!」


 彼のとった行動は、“アラクネ”に飛びついて庇うことだった。


「ぐあ!」

 背中に五発の衝撃をほぼ同時に受け、彼が悲鳴を上げる。

「ああっ!」

 綾香からも思わず声が上がる。

「はっ、根競べと行くか」

 日比野の攻撃が連続で繰り出される。

 久鎌井は振り返り、それを盾で受け止めていた。

 何度も、何度も、日比野は、夢遊状態である久鎌井の力がなくなるまで、ひたすらに続けるつもりで攻撃を繰り返していた。

 自分の力ではどうすることもできない状況だとしても、綾香もどうにか久鎌井の力になりたくて駈け出そうとしたその時、少女の声が聞こえた。


「どうして……」


 それは“アラクネ”の、月野雫の声だった。

「守りたいからだよ、俺が。君を守れないと、俺が嫌だからだよ。それに」

 久鎌井にもその声が届いたのか、彼は盾を掲げながら彼女の問いに答えた。


「今日、君のお父さんに会ってきたよ……すごく、後悔してた。君を助けられなかったことを……少しだけ、俺に似ているな、なんて思ってさ。君も、君のお父さんも助けたいんだ」

 “アラクネ”の姿が変わった。


 髪の毛の異常に長い、小さな小さな女の子。


 それが、“アラクネ”本来の姿なのかもしれない。


 そして、彼の背中に手を伸ばした。


「だから今は逃げて! 俺が消えてしまう前に、そして……体に戻ったら、耳を澄ましてごらん。君を呼ぶ声が聞こえるはずなんだ。あの人は何度だって呼んでいるはずだ。そうしたら目を開けるんだ。お父さんが待っているよ。君がお父さんを助けてあげて!」


 彼が叫ぶと、少女は伸ばしかけた手を止め、糸が解けるようにして姿を消した。


 “アラクネ”の行動を背中で感じたのか、久鎌井は盾を消すと、全身の力を抜いた。

 そうすれば、日比野の植物の鞭を受けるのは必然だった。

「危ない!」

 せめて、それだけでも止めたかった。

 綾香は飛び出して久鎌井の前に立つ。

「きゃあ!」

 無論、吹き飛ばされることになり、そのまま久鎌井の胸にぶつかった。

「わ、わっ」

 そして二人して地面に倒れてしまった。

「くそ! 逃がしやがったのか」

「お前の負けだよ。日比野」

 鏡谷の声が聞こえた。

「……すいません、先に帰ります」

 久鎌井はその一言を残すと、そのアバターの姿を消した。もう限界だったのだろう。ただその声色からは、全てをやりつくした充実感が感じられた。


「久鎌井……やったね」


 綾香は、彼のいなくなった空間を見つめながら、呟いた。

 彼女の心の中もまた、彼と同じ喜びで満たされていた。



 — * — * — * —



 少女は、闇の中にいた。


 あの日、もう疲れてしまった。


 いじめ自体は中学時代だけだった。高校に入れば、クラスメイトが少女をいじめることはしなかった。でも、友達はできなかった。誰も少女のことを気にも留めなかった。


 少女は変わりたかった。何度も変わろうと思った。しかし、怖くてできなかった。


 少女は話すのが下手だった。何を話していいか分からず、話そうとすればどうしてもどもってしまうのが癖だった。それも少女にはどうにもできなかった。


 もう疲れた。嫌になった。絶望した。


 だから、少女は手首を切った。


 急速に力が抜けていき、そして眠くなった。これで眠ったら、もう目覚めることはないんだろうな。そう考えたら少女は急に怖くなった。


 何で自分がこんな目にあわなければいけないのか!


 こんな思いをしなきゃいけないのか!


 憎い憎い憎い憎い憎い憎い!


 そして、気が付いた時には、少女は蜘蛛になっていた。


 その、蜘蛛は、少女が憎かった相手を、殺そうとしていた。

 駄目だと思った。それはやってはいけないと思った。

 それでも憎かった。死んでしまえばいいんだと思うほどに。


(でもやっぱり、駄目だ、それは……でも……)


 少女は葛藤していた。


 闇の中ずっと白い何かを抱えていた。それは、少女の良心だった。

 それが闇に飲まれそうになるたびに光を発しては、次第にその光は失われていく。

 消えてしまえば、少女は再び蜘蛛になる。

 それを三度も繰り返し、少女はもうどうにもならないと思った。


 それでも、自分を、身を挺して守ってくれた人がいた。


(その人が言った……耳を澄ましてごらんって)


「………―――」

 何か聞こえた気がした。


 ふっと、周りが明るなった。

 それは、日の出が近い朝のように、白んで――


「雫……」


 名前を呼ばれた。

 少女は、それが自分の名前だと認識できた。

 世界はさらに明るくなっていく。

 でも、眩しくはない。ただただ、暖かい。


「いい天気だぞ。今日はお花を持ってきたぞ、早速、花瓶に飾るよ」


 その声に、少女の心も動き出す。

(ああ、懐かしい、ひどく懐かしい声だ)

 ようやく気づいた。

 闇の中でも、届いてきた声。


(耳を塞いでいたのはわたし自身。眼を閉じていたのはわたし自身)

 耳を傾けるだけでいいのだと気づく。暖かく、優しい、声に自分が包まれていくのが分かる

「なあ、綺麗だぞ。見てごらん」

 でも、その声はひどく悲しそうな声でもあった。


(助けてあげなきゃ。あの人はそういった)

 自分の意識で浮上する。自らの意思で、その声に向かう。


「……うん」


 少女――月野雫は、目を開けた。

 視界に映りこんだのは色とりどりの花。とてもとても綺麗だった。


「雫……雫! 気がついたのかい? 雫!!」

 雫の父親が花瓶を横にある台の上に置いた。ちゃんと、場所も確認しないで置いたために、花瓶が倒れそうになった。


「うん……ごめ――」

「雫、雫! 良かった良かった……ああ、雫。ごめん、ごめんよ。すまなかった。ああ、ああ――」

 父親が雫に抱き着いた。子供みたいに泣きじゃくって、途中から何を言っているかも分からない。


 華奢な少女に、その体躯は重かった。でも、心地よかった。


 雫も、父親の体に手を回した。


「わたしも……ごめんなさい」


 父親の涙が、少女の頬を濡らす。


 それに、少女の涙が混じりあった。


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