第5章 イーチ・ホープ ー②

 久鎌井が、パンドラの二人と衝突することもいとわずに“アラクネ”を助けようとするのかどうかを知りたい。困難な状況を目の前にして、彼がどう判断し、どう行動するかを知りたい。それが自分の思いであると結論付けてみてもなお、綾香はまだ納得できていなかった。


 結局、朝からずっと、授業中も、頭の端にはしこりが残っている感じで、集中できなかった。

(ほんと、久鎌井のせいよ!)

 腹を立てているが故か、それとも他の感情からか、綾香は久鎌井の様子が気になり、授業中でも何度かはこっそりと振り返り、彼の様子を窺がっていた。


 久鎌井は一見いつも通りに授業を受けているようだが、不意にもの思い耽っているような様子もあった。


(ああ、もう!)

 彼のことが気になってしまう自分に苛立ちを覚え、それを表に出せないジレンマにより感情はさらに倍増されていく。

(わたしの堪忍袋の緒はカチンコチンの堅結びで締められている違いないわ)

 意味不明な感想を抱きながらも、すでに顔の筋肉がひくつき始めているを感じた。

(こうなったら……)

 綾香がようやく決心したとき、チャイムが本日の授業の終了を告げた。



 — * — * — * —



 今日の授業は、すべて終了した。


 久鎌井はすっきりしない感情のまま授業を受け、さすがの彼もあまり内容が頭に入っていなかった。それでも、衣と話をしたことで、最低限やるべきことには手を付けられる精神状態にまで持ち直していた。

(さて、俺には家族がいる。やらなければいけないことがある)

 これから家に帰って、母親と妹のためにやらなければいけないことがたくさんある。久鎌井にとってそれが一番大切であることは揺るがない。

(さあ、帰ろう!)

 パンッ! と、頬を両手で叩いて、久鎌井は立ち上がった。

 家族には決してこんなしけた顔は見せたくないと、半ば無理矢理に気持ちを切り替えて学校を後にしようとするのだが、校門で待ち構えて女性はそれを許してはくれなかった。


「鏡谷さん……」

「やあ、歩きながらでいいんだが、少し話がしたい。いいかい?」

 タバコを消しながら、鏡谷は久鎌井にそう尋ねた。

 久鎌井は断りたかったが、そうはさせない雰囲気が鏡谷にはあり、彼は仕方なく頷いた。


 鏡谷と久鎌井は二人並んで、彼の家へと向かって歩きだした。

 鏡谷はすぐに話し始めようとはしなかった。周囲にちらほらと下校中の生徒がいるからだろうと、久鎌井は思っていた。彼女はただ前を向いて、静かに歩いていた。

 しかし、久鎌井は落ち着かなかった。

「何のお話ですか?」

 何の話かは大体分かっているが、苛立ちからしびれを切らし、久鎌井の方から尋ねた。

「何の話だと思う?」

 しかし、鏡谷は視線を前に向けたまま久鎌井に尋ね返した

「……“アラクネ”の所持者について何か分かったとか?」

 久鎌井は鏡谷の白々しい物言いに内心イラっとしたがそれを抑え、彼女に視線を向けずに答えた。

「ふむ、何故そう思う?」

 さらに聞き返す鏡谷。それでも久鎌井は努めて冷静に返答した。

「昨日、鏡谷さんが、分かったら僕にも教えてくれると言っていましたから」

「そうだったな。しかし、今からする話は少し違う。“アラクネ”関連の話であることは間違いないのだがね。 ……昨日襲われていた家の人間と話をしてきた」

「田中さんですか? 何のために?」

「協力を要請してきた」

「協力? 何のですか?」


「罠を張るためのだよ」


「罠……ですか?」

 ふと、久鎌井の脳裏に、昨夜鏡谷が呟いた言葉を思い浮ぶ。『これでやつの出現場所が特定できたな』と、鏡谷は言っていた。

「田中さんの家で待ち伏せるということですか?」

「ああ、恐らく“アラクネ”は今日も出現するだろうからな」

「でも、昨日のことで“アラクネ”も僕たちが待ち構えている可能性を考えているんじゃないですか?」

「今まで出現しなかったのが所持者の葛藤のためだとしたら、出現するようになったということは耐えられる限界を超えたということだろう。恐らく、わたしたちが待っていることが分かっていても現れるはずだ」

「そうですか」

「もちろん、君にも協力して欲しいのだが、どうだ?」

 鏡谷がようやく久鎌井の顔を見た。

 しかし、久鎌井は、彼女と目を合わせようとはしなかった。


(どうしたらいい? どうするべきだ?)


 久鎌井は自問自答した。

 もしも、“アラクネ”の正体が自分の思っている少女だとしたら、一体どうしたらいいのだろうか? 確かに、“アラクネ”の起こした事件は許されることではない。命を狙われている人間を守ってあげたいという気持ちもある。しかし、もしも“アラクネ”の正体があの少女だとしたら……


(俺は……どうしたらいいのだろう?)


 答えはでなかった。それでも、真実は知りたいという感情は、そこに存在していた。

「……分かりました」

 僅かの間をおいて、久鎌井は頷いた。

「ありがとう。助かるよ。じゃあ、待ち合わせは昨日と同じ時間で」

「はい」

「それでは、わたしはこれで失礼するよ。もう一人君と話したそうにしている人物がいるからね」

「え?」

「話は終わったよ、綾香くん」

 鏡谷が振り返って少し大きな声で誰かに呼びかける。

 久鎌井も振り返ると、その視線の先には、おろおろと今更ながら隠れる場所を探すような素振りを見せる綾香がいた。

「え、あ、そ、そう。話は終わったのね」

 綾香は居住まいを正すと、なぜか偉そうな態度で頷き、ゆっくりと久鎌井のもとに歩みよってきた。

「じゃあ、わたしはこれで失礼するよ」

 鏡谷はその場を去ると、綾香と久鎌井だけがその場に残されることになった。



 — * — * — * —



 周囲にそれほど人はなく、車がたまに行き合うだけの住宅街。

 物音や喧騒は遠くに聞こえ、かえって周囲の静けさを際立たせていた。


「………」

 綾香は久鎌井に聞きたいことがあった。校門を出たところで彼に声を掛けようと思っていたのだが鏡谷が現れたことで機を逸し、そのまま後を追ってきた状況であった。ただ、突然二人きりになったことで、どう話しかけて良いものか戸惑っていた。


「………」

 久鎌井にしても、綾香が何の用なのか分からなかったし、鏡谷との話の後で心が乱されており、何を話してよいのか分からず、困っていた。


「鏡谷さん、何の話だったの?」

 先に沈黙を破ったのは綾香だった。

「え、ああ。……今日の夜の話だよ。“アラクネ”を罠に掛けると言っていた。彼女が狙っていると思われる少女の部屋で待ち伏せをするらしい。家の人にはもう話をつけてあるみたいだ」

「ちょっと待って」

 綾香が、久鎌井の言葉を遮った。


「今、あんた“アラクネ”のことを『彼女』って言ったわね?」


「あっ」

 綾香の追及に、久鎌井は視線を逸らした。

「隠さなくていいわよ。昨日の夜、中学の頃の話をしたじゃない。あのタイミングでそんな話をされたら、関係ないって言われた方が納得できないわよ」

「………」

 綾香の言葉に、久鎌井は沈黙を持って答えた。


 久鎌井は視線を下げたまま、口をつぐんでいる。


(これじゃだめだ)

 久鎌井の様子を見て、このままでは彼は黙ったまま、何も話そうとはしないだろうと、綾香は思った。しかし、それでは綾香は困る。別に彼女は、“アラクネ”の正体について、知りたいわけではないのだから。

 綾香はあわてて久鎌井に声を掛けた。

「わたしは“アラクネ”の正体を追求するつもりはないわ。そのことを鏡谷さんに告げ口するつもりもない」

「……え?」

 久鎌井は視線を上げ、少し驚いた表情を綾香に見せた。

「わたしは、ただ一つだけ、聞きたいことがあるの」

 綾香は、自分でも驚くほどの真剣な表情で、彼を見つめて、そして尋ねた。


「“アラクネ”の正体が、あんたの考えている人だとして、あんたはどうするつもり?」


「お、俺は……」

 久鎌井は一人称が『俺』になっていた。

 その後の言葉を、久鎌井は続けられないで、口をパクパクさせている。


「“アラクネ”を助けたいの?」

「………」

「それとも、倒すの?」

「………」

「どっちなの?」


 久鎌井の沈黙に対して、綾香は一歩も引かずに質問を続けた。

 彼女のその強い態度。それが何故なのか分からず、久鎌井は戸惑いを覚えると同時に、「ほっといてくれ!」と叫びたくなる衝動がこみ上げてきた。しかし、あまりにも綾香の真剣な眼差しには、それを許さない雰囲気があった。

 刀を突きつけられているようでいて、膝をついてお願いされているような、不思議な感覚を久鎌井は覚えた。だから久鎌井も、正直に自分の心と向き合って、それを言葉にすることにした。


「俺は……分からない」

「分からない?」

「どうしたらいいかなんて、分からない。でも、とにかく会って確かめないと……“アラクネ”の正体を確かめたい」

「それで、その人だったらどうするの?」

「……そのとき、考える」

「はあ?」


 綾香は、久鎌井の言葉に、素っ頓狂な声をあげた。


「そのとき考えるって、あんた……」

「分からない。どうしたらいいかなんて、助けたいとは思っているけど、どうしたらいいかは分からない。だから、とにかく、正体を見極めて、彼女と話をしたい」


 久鎌井も綾香の目を真正面に見返して、視線を逸らすことなく答えた。


「そう……」

 それ以上、答えようがないのだということが綾香にも伝わった。

「じゃあ、わたしも参加させてもらうわ」

 綾香はそう言い放っていた。

 そんな自分に、どうして? という疑問を持たなかったわけではない。ただ自分がどうしたいのか、その瞬間に沸騰するかのようにわいた感情のまま、衝動のままに口走っていた。



 — * — * — * —



 深夜、午前二時。

 六畳の部屋。ぬいぐるみがいくつも置いてあり、いかにも女の子らしい部屋だった。


 それは音もなく現れた。


 窓の隙間ともいえない隙間から、何かが入り込んでくる。

 それは黒い、とても細い何か。糸のようでもあるが、それは髪の毛のようであった。


 一本、二本、三四五六十十五二十四十六十百千万一千万!


 大量の髪の毛らしきものが、一つ一つがミミズのように蠢き、部屋に侵入すると、部屋の中央に集まりだした。

 毛玉が形成され、それは次第に大きくなり、さらに八本の足が形成されていく。


 髪の毛は、黒い蜘蛛に変貌した。


 そして、見つめる先は、星柄の布団。

 そこには人一人分の膨らみがある。

 蜘蛛は、足の一本を振り上げた。


「そこまでだ」


 鏡谷は入り口から部屋の中に飛び出すと同時に、拳銃を取り出した。

 “アラクネ”の注意がそちらに向いた。

 鏡谷の声を合図に、布団にくるまっていた日比野が行動を起こす。

 布団を捲り上げると、アバターの力を顕現させた。

「!」

 彼の植物の腕が、肩の付け根から何本もの太い蔓に分かれた。そして、まるで喰らいつくかのように“アラクネ”の体に纏わりついた。

「観念しな」

 にやりと、日比野の口が歪む。


 しかし、突然“アラクネ”の体が溶けた。


 実際は溶けたように見えただけで、“アラクネ”の姿が部屋に侵入してきたときのような大量の髪の毛に変わった。そして、日比野の絡みつく腕から逃れると、その場で再び蜘蛛を形作った。


 髪の毛。黒い蜘蛛の姿は大量の髪の毛が絡まりあい、編みこまれたもの。それが“アラクネ”の実態であった。


 蜘蛛に戻った“アラクネ”が窓を突き破って外に飛び出た。

「行ったぞ!」

 鏡谷が外に向かって叫んだ。



 — * — * — * —



 久鎌井と綾香は、鏡谷の作戦に従い、“アラクネ”に警戒されないように家から少し離れた所で待っていた。久鎌井は白騎士の姿で、綾香はアルマジロの姿で、二人ともアバターとしてそこにいた。


 日比野が狙われている対象に成りすまし、“アラクネ”をおびき寄せ、久鎌井が外で待つ作戦であったが、綾香が自分も作戦に参加したいと言うと、とりあえず久鎌井と一緒に行動するようにというのが鏡谷の指示であった。それは綾香にとってとても好都合なことだった。


(わたしは、彼がどう行動するかを見るためにこの作戦に参加したのだから)


 綾香は、朝からずっと彼について頭を悩ませていた。何が気になるのか分からず自問自答を繰り返し、このように結論付けた。

 自分は、彼が直面している困難な状況に対し、どう判断し、どう行動するのかを知りたいのだと。

 しかし、それでも自分の心を十分に納得させることはできていない。


 『何故知りたいのか』が分からないからだ。


(わたしは何故、彼の行動や判断をこんなにも知りたがっているのだろうか?)

 結局、それに答えが出なければ腑に落ちることはないのだ。

 しかし、綾香が久鎌井に直接問いただしたときに、彼もまたどうしたいのか分かっていないようであった。いや、どう見ても助けようとしているのだから、どうしたいのか分からないというよりは、どうしたらいいのか分からないといったところだろう。

 その時、綾香は口走っていた。


 自分もこの作戦に参加すると。


 そう言ってしまったことに、綾香は迷いもなく、また後悔もなかった。

 何故、久鎌井の行動や判断が気になるのかは分からないままだ。

 分からないけれど、ここで答えを得ることが出来たその時には、その理由も見えてくるかもしれないと、綾香はそう思っていた。

 それに、今ここにいたい、ここにいないわけにはいかない、という強い思いは確かにあった。

 綾香はちらりと彼の顔を窺った。

 白騎士の仮面の上からでは表情は分からないものの、そこに迷いを感じた。


ガシャーン!


 突然、見張っていた家の窓ガラスが激しく割れた。

 中から黒い何かが飛び出してきた。


「行ったぞ!」


 鏡谷の声が二人に届く。

 二人は一瞬顔を見合わせ、すぐに駆け出した。

 彼は飛び出した勢いで“アラクネ”の前に立ちはだかった。

 “アラクネ”は動じた様子もなく、そのまま彼に襲い掛かる。


「危ない!」


 綾香が反射的に叫んだ。久鎌井はすぐに“アイギスの盾”を出現させ身を守った。


 “アラクネ”も必死なのか、何度も足を振り上げては下ろしてきたが、白騎士の盾は難なくその攻撃を受け止めている。どれだけ攻撃を受けても、白騎士は退くことはなかった。


「ねえ、月野さんなの?」


 盾を掲げたまま、久鎌井が尋ねた。


 その言葉を聞いて、“アラクネ”の攻撃が止まった。


「君は、月野さんなのかい?」


 久鎌井は盾を降ろし、黒い蜘蛛を見つめた。


 “アラクネ”は、振りあげた鎌のような足をゆっくりと降ろすと、少し後ずさりをした。


 その様子は、明らかに動揺しているようだった。


「やっぱり……」


 久鎌井の中で確信が生まれる。“アラクネ”の所持者は、自分の思った通りの人物であると。


「そこまでだ!」

 声と同時に、日比野が姿を現し、その腕を振り上げた。大木ほどの太さを持ったその植物の塊は鞭のようにしなり、“アラクネ”に襲いかかった。しかし――


「待ってくれ!」


 久鎌井は咄嗟に飛び出すと間に入り、日比野の攻撃を盾で防いだ。


「庇った!」


 彼の行動を見て、綾香は思わず声を上げた。


「……何のつもりだ?」

 一方、日比野は血走らせ、久鎌井を睨んだ。

「……」

 久鎌井は無言で答える。


「わたしも、説明してもらいたいな。久鎌井くん」

 続いて、厳しい顔をした鏡谷も現れた。

 久鎌井は、彼女の問いにも答えず、振り返って“アラクネ”に声を掛けた。


「やっぱり、月野さんなの?」


 蜘蛛は、答えなかった。しかし、何か怯えるように後ずさり、振り返るとそのまま勢い良く逃げ去っていった。

 “アラクネ”の後姿を見送る彼に向かって、日比野が植物の腕を振り上げた。

「危ない!」


ガンッ!


 綾香が声を上げるが、時すでに遅し。

「ぐあっ!」

 久鎌井は背中に攻撃を受け、受身も取れないまま前に倒れこんだ。

「どういうつもりだ?」

 日比野はまるで怒りそのものを纏ったかのようにそのアバターの腕を膨張させ、彼に近寄っていった。

「よすんだ勇! ………しかし、久鎌井くん。わたしも聞かせてもらいたい。正直に答えてくれ。君は、“アラクネ”の正体を知っているね?」

「鏡谷さんも、もう調べはついているんじゃないんですか?」

 久鎌井はゆっくりと立ち上がった。

「……できれば、君の口から聞きたかったのだが」

「……」


「月野雫を、君は知っているね」


「はい」


 久鎌井の返答に、鏡谷は大きくため息をついた。


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