第2章 ボーイズ・デイリー・ライフ ー④

五月一〇日  水曜日 



 目が覚めた。


 目に飛び込んできたのは見慣れた天井。カーテン越しの光に頼ることもなく、久鎌井は目覚まし時計を手に取った。


 いつも通りの六時数分前。

(夢を見なかったな……)

 その夢というのはいわゆる普通の夢のことではなく、白騎士になって街を徘徊する不思議体験のことだ。


 久鎌井は、毎夜白騎士になっているわけではなかった。


 今までの経験的に、頻度は一週間に一回か二回程度であり、二日連続でなったことはなかったため、昨夜は恐らく見ないであろうと推測はしていた。まあ、予想通りだったわけだ。


 いつ白騎士になるのか、どうしてなるのか、どんなときになるのか、一体あれは何なのか、当事者の久鎌井にも何も分からない。ないないづくしで考え始めてしまうと、やはり衣の指摘した通り不安になるが、考えて答えが見つかるようなことでもなく、そこは楽天的になろうと久鎌井は考えていた。


 白騎士になれたらラッキー、なれなかったらまあ仕方がない、といった感じだった。


 そして、その体験がどれだけ不可思議であっても現実である限り、そのとき湧き上がる感情や、行動が重要だった。だから久鎌井は極力混乱を巻き起こさないように、本当に見過ごせないと思った事件がない限りは姿を消すようにしていた。


 そうやって彼が自身の行動に気をつけるようにしてから、白騎士がニュースになることはなかった。


 都市伝説のような噂は広まってはいるが、それはあくまで噂話だ。

 そうして人に迷惑をかけないようにしていれば、あとは白騎士でいることを楽しめばいいだろうと、久鎌井は思うようにしていた。


(この体験は、一生懸命な俺に対して神様がくれたちょっとしたご褒美みたいなものだ)

 久鎌井は別に神を信じているわけではないが、そう思うことで今の事態を肯定的に受け止めることにしていた。


 ふと、自分以外にも同じような経験をしている人間はいるのだろかと思うこともある。

(もしもいるならば話を聞いてみたいものだ)


ジリリリッ、ジリリリッ、ジリリリッ――


 手に持っていた目覚ましが彼を日常へ引きずり込もうと責め立てる。

「さて……」

 久鎌井は、いつもの波に乗ろうと気持ちを切り替えた。

やらなければいけないことがある。役割というものがある。

「よし!」

 久鎌井は短くは気合の声を上げると、体をほぐしながら布団を出た。



  ― * ― * ― * —



 騒がしくも幸せな朝の時間が過ぎていく。

 だらしのない二人を急かしつつ、久鎌井はテキパキと仕事をこなす。


「どう? キマってる?」

「ああ、キマってるよ」

 トイレ掃除が終わるのを待ち構えていた兄妹のやり取り。


「どうよ、わたしもキマっているでしょ?」

 妹が去ると、その後ろで何故か母親がポーズを決めていた。

「どうしたの? いきなり」

「いつも友ちゃんマイマイを褒めてるじゃない? たまには母も褒めてもらおうと思ってさ、どうよどうよどうなのよ?」

 次々とポーズを変える母。

「ああ、キマってるよ」

 そのポーズが妙に古臭いという感想は胸に締まって、久鎌井は素直に褒めた。

「でっしょー? まだまだ若いもんには負けんさ。はっはっはっ!」

「で、天気は?」

「晴れだってさ。ふっふ~ん♪」

 その一言を残して唯奈は鼻歌を歌いながら上機嫌に去っていった。


(ああ、今日も平和だ)


 二人がそれぞれ家を出ると、久鎌井も朝の一服を済ませ、いつも通り玄関で写真の中の父親に『いってきます』を言って家を出た。


 昨日は衣のことがあって憂鬱な気分を胸に抱いて登校していたが、それはもう解決している。むしろ、今まで一人で抱えていた秘密を共有してくれる相手がいることは、久鎌井の気持ちを心なしか軽やかなものにしていた。


 今まで誰にも話せないでいたから、逆にもっと話したいと思うほどであった。

(秘密というのはそういうものなのかもしれないな)

 しかも、話をする相手は美人で有名な沢渡衣である

 久鎌井とて、高校時代に女子と付き合うつもりもないと切り捨てている朴念仁とはいえ、男だからそれが嬉しくないなんてことはなかった。


 それに、久鎌井にとっては学校で他人と仲良く話をするというのも久しぶりだった。


 彼には友人と呼べる人間がいない。


 別に、周囲から嫌われているということはないのだが、久鎌井は積極的に友人関係を作ろうとはせず、いつでも一人でいるようにしていた。クラスメイトの名前もほとんど覚えていない。顔を覚えているだけだ。通学中にクラスメイトと挨拶くらいは交わすこともあるが、それはクラスメイトだからというわけではなく、声を掛けられたのなら返さなければ失礼だろうということでしているだけだった。

 無難な社交性だけであり、クラスメイトの何人かからは、とっつきにくい人間であると思われているであろう。


 しかし、そのような態度でいるのには、彼なりに理由があった。


 久鎌井にとって最優先にしなければいけないことは家族の世話だ。だから、友人を作っても授業後や休みに遊びに行くという付き合いが出来ない。それに、テレビもマンガも見ない、ゲームもしないとなれば話をあわせることもできない。それでは友人を作るのも難しいし、こっちに話を合わせてもらうのも申し訳ない。

 もちろん、子供の頃にはいたが、それも学年が進み、久鎌井が家事をするようになってからはどうしても疎遠になり、進学すればさらに多くの人間と接する機会が増え、その頃の友人たちはそれぞれのコミュニティーを築いていた。


 久鎌井も、最初は友人を作ろうとしていたが、いつしかその努力をしなくなった。


 そんなことに割いている時間は、彼にはなくなっていたのだ。


 中学のときはどの部活にも所属しなかった。家での役割を人生の中心に据えて行動するようになっていたのだ

 決して人嫌いというわけではない。だから昨日のように衣と話が出来たのは、久鎌井にとっては純粋にうれしく、楽しかった。

 そして、今日も同じく昼休みには一緒に弁当を食べることになっている。


 気がつけば、校門が見えてきた。


 気を抜くとにやけてしまいそうになる口元を引き締めて、久鎌井は学び舎の門をくぐった。



  ― * ― * ― * —



キーンコーンカーンコーン――


 昼休み。

「お、来たわねえ」

 久鎌井が弓道場の中に入ると、すでに衣が待っていた。


 二人して道場の板の間に直接(衣は適当なタオルをお尻に敷いていた)座り込み、それぞれの弁当をつつきながら久鎌井は話し始めた。


 内容はもちろん、久鎌井が白騎士になっているときの話だ。


 ニュースや、噂になっているものもそうでないもの。彼は頭に思い浮かんだ出来事をつらつらと言葉にしていった。


「今のところ三人くらいですね。そうやって助けたのは」

「へえ、やるじゃない」

 衣はそれを楽しそうに聞いていた。

 その表情をみて、まるでお伽話を聞いている子供のようだと久鎌井は思ったが、そのことは胸にしまっておいた。言ったら怒られそうだ。


 しかし、途中から少し違う方向に話が進んでいった。


 それは衣の質問から始まった。


「そういえばさ、思ったんだけど」

「はい?」

「白騎士の噂って十時を過ぎた頃からって聞くけど、あなたが寝ないと白騎士が現れないなら、あなた十時になったら寝てるの?」

「はい、寝ています」

 久鎌井は即答した。


「早いわね、近頃の若者にはあるまじき就寝時間よ」

 衣は信じられないといった様子で首を振った。


「テレビだって、ゲームだって、漫画だって、インターネットだってあるんだし、もっと遅くまで起きていたいとは思わないの?」

「まあ、お弁当を作らなければならないので」

「え? あなたお弁当自分で作ってるの?」

 衣は目を丸くして驚いていた。


「はい」

「それも?」

「はい」

 衣はじっと俺の弁当箱の中を覗き込んだ。


「でも、冷凍食品も入っていますよ。最近のは美味しいので」

 今日の内容は冷凍の白身魚のフライと、玉子焼きと、アスパラのベーコンで巻きと、プチトマトと生レタスだ。

「そんな手の込んだものを作ったりはしていません」

「それでも立派ね」

「でも先輩、知らなかったんですか?」

「知らないわ。わたしだって何でも知ってるわけじゃないわよ」

 衣は少し不機嫌そうに答えた。

「みんな、わたしなら何でも知ってるみたいな顔して聞いてくるんだもの、困っちゃうわ」

「あ……すいません」

「いや、久鎌井くんに言ってるわけじゃないのよ」

 衣は自分が不満な表情を浮かべていることに久鎌井の反応で気づき、慌てて笑顔を見せた。


「でも、僕はてっきり先生からやめた理由について聞いていると思っていたので……先生は何て言っていました?」

「え、家庭の事情って聞いているけど……」

 教師も、プライバシーについては伏せるだろう。考えてみれば当たり前かと、久鎌井は納得した。


「家では、家事は全部、僕がしているんですよ。もともとあまり部活をしている暇がなくて、これからは勉強もしていきたいから部活をやめさせてもらったんです」

 自分から話す分には問題ない。久鎌井もそれくらいなら別にいいかと、何の気なしに理由を話した。


「勉強って、大学受験の?」

「そうです」

「そんな! 早くない?」

 わたしだってまだ始めてないわ、と衣は首を振った。


「そんな高いところ狙ってるの? もしかして東大?」

「ま、まさか! そんなわけないですよ」

 今度は久鎌井が慌てて首を振った。

「じゃあ、何でよ? いくらなんでも早すぎるでしょ? もう一年部活やってもいいんじゃない?」

「………落ちるわけにはいかないですから」

 久鎌井の表情に影が差す。


 別に、今の家庭の状況について話すことに関して、久鎌井に抵抗感はなかった。しかし、過去に一体何があったのか、どうしてこんな家庭の状況になったのか、それは話す必要はないと思っていた。別に平気な顔をして、適当な理由で話を躱すこともできたはずだった。


 だというのに、気が付くと久鎌井は自分の過去について話し始めていた。


(あれ? なんでだろう?)

 他人とこんなに長く話をしたのが久しぶりだから口が軽くなってしまったのだろうか?


 衣にはすでに大きな秘密を知られているから、今更一つや二つ変わらないと思ったのだろうか?


 それとも衣の人柄に、思わず口を滑らせてしまったのだろうか?


(いや、もしかして……)


 まさかとは思うけれど、自身の考えや思い、そしてそれに向けて努力している自身の姿を、誰かに知って欲しいと思ってしまったのだろうか?


 家族には見せられない自分の弱気な部分を誰かに見て欲しいと……。


(そう、家族には言えない)


 自分が家族のために苦労しているなんて思われたくない。でも、そんな自分の心を支えるために、信頼できる他人に、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。


 しかし、久鎌井はそんな自分を認めはしない。家族のために時間を使っていることを、惜しいなんて思っていない。それは間違いない。


(むしろ、幸せすら感じているのに……)

 彼の口が止まることはなかった。



  ― * ― * ― * —



 久鎌井には父親がいた。当たり前だ。父親がいて母親がいて、子供が生まれる。

 でも、今はいない。

 久鎌井が小学校一年の頃に、交通事故で亡くなった。


 ある休日のことだ。家族で散歩しているときだった。

 久鎌井は、はしゃいで道に飛び出してしまった。

 不運なことに、そこに車が走りこんできた。


「友多!」


 父親は叫びながら、とっさに飛び出していた。飛び出して、息子を突き飛ばすと、代わりに車にはね飛ばされた。


 そのときの様子は、久鎌井の網膜に焼き付いて離れない。


 倒れたまま動かない父。

 絶叫する母。

 何のことか分からないで呆然としている妹。


 そして、自分の愚かさに気づきつつある少年もまた、身動きをとることが出来ないでいた。


 すぐに救急車がやってきたが、父は助からなかった。


 父親は息子を守るために命を落としたのだ。



  ― * ― * ― * —



「だから、僕は、父親の代わりに、父親が大事にしてきた家族を守りたいんです。まだ働くことはできないから家事を覚えました」

 だから、苦になんて思っていない。自分の役割なのだから。


「大学は近くの大学の医療系に進もうと思っています。医者は無理ですけど、医療技術者なら職に困らないかなと思っていまして。それで、できる限り早く働いて、母親を助けてあげたいんです」

 だから、部活をやっている暇はない。


「そして、妹には不自由な思いをさせることなく、青春を謳歌させたいんです」

 自分が妹から父を奪ってしまったから、せめて父親の代わりをしなければいけない。


「……ごめん、変こと聞いちゃったわね」

 衣の謝罪の言葉に、久鎌井はふと我に返った。


「いいですよ……。僕から話したことですから、話したくなければ……話しません」

 久鎌井は笑顔を衣に向けるが、内心はこんな話をしてしいる自分にいまだ戸惑っていた。


 しばしの間、久鎌井は続ける言葉を見つけることが出来ず、動揺を見せないようにすることで精一杯だった。衣もまた、じっと黙っていたのだが、


「……だから白騎士なのかな……」


 ふと、独り言のように呟いた。

 それは、優しい響きだった。


「え?」

「家族を守りたい、そんな久鎌井くんの心は、本当に白騎士の格好をしているのかもしれないよ」

「な、なに言っているんですか……」

 衣の言葉と表情に、久鎌井の心臓が跳ね上がった。照れ隠しに、思わず鼻の頭を掻いている。


「でもさ……わたしが言うことじゃないかもしれないけど」

 衣は視線を久鎌井から外すと、言いにくそうに言葉を続けた。


「お父さんが守ろうとしたものは、久鎌井くん、あなたじゃないのかな? 久鎌井くんは、自分を犠牲にしすぎじゃないかな……」


「え?」


「ごめん、何もない。もう時間だ。戻らなきゃね」

「……は、はい」

 衣が言ったこと意味がよく分からなくて、久鎌井は思わず聞き返した。しかし、衣はそれには答えず、立ち上がった。


「そういえば、もう一つ聞きたいことあったんだった」

 道場の入り口で振り返った衣の表情は、いつもの明るい笑顔に戻っていた。

「何ですか?」


「黒い蜘蛛の噂。聞いたことない?」


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