第2話 死なないよ

 私には、とっても愛してやまない人がいる。

 彼女は漫画家だ。

 別に漫画家という職についているわけではない。ごく普通の中学生だったけど。

 別に恋人じゃない。家族でもない。だけど彼女は、私のためだけの漫画家だった。


 私だけの漫画家になったあの日からずっと、彼女は毎日、私のために漫画を描いてくれた。

 ここではない素敵な世界で紡がれる里砂ちゃんが主人公の物語を、素敵な絵で描いてくれていた。


 1話描き終えるごとに、「次はどうなるの?」と私に続きを尋ねてくる。

 私が頭の中で繰り広げられるお話を話すと、彼女はキラキラと目を輝かせて、楽しそうに聞いてくれた。


 聴き終えた彼女は、再び漫画を描き始める。

 すると今度は私が目を輝かせて、彼女の描く漫画を見つめる。

 そんな放課後を過ごすようになってから、もう4年も経つ。

 里砂ちゃんの物語はもう終盤に差し掛かっていて、もうすぐ終わりそうだった。


 里砂ちゃんは魔法を使って、好きな人を幸せにするために日々頑張っている。

 そんな里砂ちゃんの物語はもう100話を超えていて、ページはもう何ページあるのかわからない。


 彼女も漫画の描き方がわかってきたようで、コマ割りや構図なんてもうプロみたいだ。

 相変わらず細い線で描かれる里砂ちゃんは可愛くて、けれど初めて描かれた時よりも上手に描かれていて、可愛さに磨きがかかっていた。



 今日も彼女は私のために漫画を描いてくれる。

 学校から彼女の家までの道を、2人で一緒に歩く。

 彼女の家は学校から徒歩20分くらいのところにある。

 校門を出ると広い道路を通って、川にかかった橋を渡って、それからもうしばらく歩いたところにある、白い壁の一軒家だ。


 彼女の家に行くまでも、勿論私たちは里砂ちゃんの話をする。

 漫画を読み返した感想を言ったり、続きの話をする。

 すると彼女は楽しそうに目を輝かせて、相槌を打って聞いてくれる。


 橋の真ん中辺りまで来た時、彼女は何を思ったのか、突然立ち止まって、鞄を地面に放った。

 そのまま欄干に自由になった両手を置いて、じっと川を覗き込んでいる。

 

「どうしたの?」


 私の問いに答えることもせず、彼女は包帯の巻かれた両腕に力を込めて欄干を乗り越え、川に飛び込んでしまった。


「え!?」


 私は唖然として声を上げた。

 何が起こったのか理解できなかった。

 バッシャーンと水飛沫の上がる音がして、私は走り出す。

 彼女が放った鞄を持って、橋を渡り終え、階段を駆け下りる。

 河川敷の芝生の上を走り、川を覗き込んだ。


 濁った水面に目を凝らすと、彼女のものらしき人影がこちらに泳いでくるのが見えた。

 人影は川縁につくと、伸ばした手を土の上についた。

 ずるりと滑ってしまった包帯の腕を掴んで引き上げる。


 ぷはあ、と顔を出した彼女は、水から上がるとニカッと笑った。


「……死んじゃうかと思った。」


 どうなったかとわからずに、私はただ一言だけそう言った。

 川に飛び込んで、そのまま溺れて死んでしまうかと思った。

 だから笑っている彼女を見て、本当に安心した。


 彼女に死んでもらっては困る。絶対に一緒に生きてくれなくては困る。

 彼女が死んでしまっては、私は1番大好きな友達と、1番大好きな漫画家と、1番大好きな漫画を失ってしまう。

 何より大好きで、何より大切な人を失ってしまう。

 彼女が死んでしまっては、私は1人ぼっちになってしまう。


 勿論家族がいる、彼女以外の友達もいる。だから1人ぼっちになるわけではない。

 なのに彼女が死んだ後の私を想像すると、なぜか1人ぼっちだった。

 1人ぼっちのように寂しかった。


「死なないよ。」


 安心させるように、彼女は優しく微笑んだ。

 その笑顔はどこまでも優しくて、私のために作られた笑顔だとすぐにわかった。

 彼女の笑顔を見ていると、心が温かくなる気がした。


「まだ死ねないの。だって私、里砂ちゃんをハッピーエンドに連れてってあげないといけないから。」


 私の手を握った彼女は、優しい笑顔をさらに深めた。


「里砂ちゃんのお話を全部描くまで死ねないよ。」


 川に飛び込んだごときで大袈裟だと、他の人は笑うかもしれない。

 確かに発端はただ、なぜか彼女が川に飛び込んだだけ。


 だけど彼女の言葉は紛れもない本物で、それだけ里砂ちゃんを――私の話を大切に思ってくれているのだと伝わってきた。

 私はそれが、とてつもなく嬉しかった。


「そっか。じゃあ、私も死ねないな。」


 ならば私も、彼女に全てを話すまでは死ねない。

 彼女が描き上げた最後の1ページを読むまでは死ねない。

 私が言うと、彼女は当然のように頷いた。


「そうだよ。だって君は、私だけの原作者だもん。」


 真面目な顔で彼女が言った“原作者”という言葉がなんだかくすぐったくて、私はぷっと吹き出してしまった。

 笑う私を見て、彼女もふふっと笑いだす。


 私の手を握っている手がもう1つ、キラキラと光る小さなものを握っているのに気がついた。

 私がそっと手を離すと、彼女は広げた手のひらの上にそれを載せた。

 おもちゃの宝石がたくさんついた、可愛らしいキーホルダーだった。


「どうして川に飛び込んだの?」


 理由はこれだろうな、と思いながら聞いてみる。

 これが川に浮かんでいるのが見えたのだろうか。

 これは一体何なのだろうか。


「これ、隣のお家の子が落としたって言ってたの。お気にいりだったから拾ってあげようと思って。」


 彼女はキーホルダーを優しく撫でて、表面についた汚れを拭った。

 彼女の隣の家には、小学2年生くらいの女の子が住んでいる。

 彼女はその子と仲が良くて、家の前でよく喋っている。


「優しいね。」


 私が言うと、そうかな、と彼女は照れたように笑った。

 本当に優しいと思う。

 確かにお気に入りのキーホルダーを落としたら悲しいだろう。

 友達が悲しんでいると何とかしてあげたいと思うだろう。

 けれど、普通川に飛び込んでまで、それを拾ってあげるだろうか。


「ありがとう。」


 彼女は一度不思議そうに目を瞬いた後、嬉しそうに目を細めて言った。

 私はハンカチを取り出して、彼女の顔を拭いてあげた。

 前髪からぽたぽたと垂れた水が顔にかかるが、拭かないよりはマシだろう。

 

 立ち上がった彼女は私に手を伸ばして、鞄を受け取ろうとする。


「濡れちゃうから、私が持ってるよ。」


 私がその手をやんわりと躱すと、彼女はまたきょとんと目を瞬いて、嬉しそうに笑った。


「優しいね。」


 彼女はさっきの私の言葉を、オウム返しのように返してきた。

 私は彼女ほど優しくないのに、彼女のように、人のために行動のできる人ではないのに。

 優しい彼女に言われると、本当に自分が優しくなる気がした。



 彼女の両親は共働きで、夜遅くまで帰ってこないらしい。

 彼女の家には誰もおらず、しんと寝りかえっている。


 私はいつもの部屋で、いつもの机の前に座って、彼女が来るのを待っている。

 キーホルダーは綺麗にしてから、明日渡すらしい。


「お待たせ。」


 部屋に入ってきた彼女は、部屋の隅の棚から紙とペンを取り出す。

 シャワーを浴びた彼女は部屋着であろう、シンプルなTシャツ姿だが、それでも両腕の包帯はしっかりと巻かれていた。


「描くの?」


 机の上にそれらを並べていつもの席に座った彼女に、私は問いかける。


「勿論。」


 気合い十分にペンを取った彼女は、紙の上にそれを走らせた。

 まだ髪がしっとりと濡れていることは、あまり気にならないらしい。


「さっき言ったでしょ。里砂ちゃんをハッピーエンドに連れてってあげないといけないからって私は、早く続きが描きたくて、早く続きが聞きたくて仕方ないの。」


「……私も、早く続きが読みたいな。」


 彼女は張り切ってようし、と気合を入れると、里砂ちゃんを描き始めた。

 私はいつものように彼女の手を見つめながら、彼女の濡れた髪を乾かしてあげることにした。

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