ヘリオポリス ー九柱の神々ー

第１５話𓋴𓍯𓍢𓋴𓄿𓎡𓍢～捜索～

「待ちなさいホルス。」

　イシスの声にホルスは足を止める。

「まさか謹慎処分を受けた身でここを出ていくつもりですか？」

　顔こそ笑っているものの、その心は決して笑ってはいない事をホルスは理解していた。

　まさかバレていたとは。

　苦笑いを浮かべるホルスにイシスはため息をつく。

「今回はそれどころではありませんから、扉の術は私が解きます。事情を話せばマアト（※注）も分かってくれるでしょう。…その代わり。」

　イシスは厳しい目を向けて言った。

「単独行動は出来るだけ慎みなさい。いくら修行を積もうと貴方はまだ半神なのです。その自信と弱さがかえって皆に迷惑をかける事を自覚しなさい。」

　その言葉にホルスははっとした。

　辛辣な言葉だが全く的を得ている。

　単に向かっていく事が強さではない。自分に出来る事と出来ない事、それを見極める事が今の自分には必要なのだ。

「ホルス、アヌビスがいなくなったからといって貴方は1人ではないのですよ。もっと周りを信用して頼りなさい。」

「……はい。」

　反省したつもりで何も変わっていない。

　ホルスはまた性懲りもなく1人で突っ走ろうとしていた自分に気づく。

「それに闇雲に探しても時間を無駄にするだけです。他の神にも協力を仰ぎましょう。声を掛ければ皆協力してくれる筈です。」

「探してはいるのだが……誰かが我らの邪魔をしている。途中で意識が遮られるのだ。」

　大地の神ゲブはそう言って首を傾げた。

「私もよ。いつもならナイルに吹く風が教えてくれるのだけれど……。だんまりだわ。まるで無視されているみたい。」

　その隣で彼に腕を絡ませ、まるで拗ねた子供のように頬を膨らませるのは天空の神ヌトである。

　2人はイシスの親であるが、その仲睦まじい姿は少し異様にも見える程だ。

　その愛の深さたるや、互いを好きすぎるあまり片時も離れない2人を周りが無理やり引き剥がす程である。

　余談ではあるが、こうしてようやく天と地が分かれたと言われている。

　しかし天地の神を以てしても気配すら感じられないとは。

　おかしい、とホルスは思った。

　これじゃまるで誰かが手助けしているみたいだ。

　わざわざ置き手紙までしたのだから、連れ去られたなんてことはあるまいし、かといって誰かに唆された可能性もない訳ではない。

　誰かと会う為だったとか？

　だとしたら誰に？

　お世辞にも社交的とは言えないアヌビスの交友関係などたかが知れている。

　しかし生活を共にしていたとはいえ、やはり全ての関係を把握出来る訳ではない。

「あー、ダメだ！　やっぱ俺アヌビスみたいに考えるより動いて探す方が性に合ってる。」

　まずはあいつの行きそうな場所を探そう。

　ホルスは見に行くだけと自分に言い聞かせて、すぐさま空へと舞い上がった。

　まずは自分の神殿に戻ってみる。

　列柱室。

　本人曰く日が当たらず風通しも良くて最高との事。

　ここに座り込んで読書をしているのをよく見かけた。

　——いない。

　じゃあ水浴び場。

　意外と綺麗好き、というかちょっと潔癖。

　——いない。

　中庭。

　キオネの散歩コース。

　——いない。

　寝室で寝てたりして。

　——いない。

「どこにいんだよ！」

　ホルスは思いつく限りの場所を探し回ったが一向に見つかる気配がない。

「これこれ、そこの若いの。一体誰を探しておる？」

　ふと誰かに話しかけられたような気がしてホルスは辺りをキョロキョロと見回した。

　誰もいない。

　でも確かに声は聞こえるのだ。

　ホルスは首を傾げた。

「ここじゃここ！」

　耳をそばだてると、声の主は予想よりも遥かに低い位置にいる事が分かる。

　声を頼りにやっとでその姿を捉えたホルスはその風貌にぎょっとした。

　子供の背丈程しかないというのに、その顔はどうみても老人なのだ。

　呆気に取られるホルスを見て、老人は豪快に笑った。

「ワシの姿がそんなに奇妙かの？これでも一応神様なんじゃが。」

「…本当かよ。」

　ホルスが疑いの目を向けると老人は自慢げに胸を張った。

「ワシはベスという。得意な事は舞と戦じゃ。これでも人間達、特に民衆からは魔除けと戦いの神として崇められておるのじゃぞ。」

「…戦いの神って体じゃねえけどな。」

　彼の言葉が未だ信じられないホルスはベスの太鼓腹をつついた。

　同じ戦いの神でもセトやセべクとは随分印象が違う。

　しかし庶民に愛される神とはこういう素朴さを持っているものなのかもしれない。

「とにかく、お主、……名は何という？」

　ベスは呼び名に困ってホルスを見上げた。

「俺はホルス。アヌ、兄のアヌビスが家出しちまって今探してるとこ。」

「家出とは。喧嘩でもしたかの。まぁほとぼりが冷めたらそのうち帰って来るじゃろ。」

　楽観的なベスの言葉にホルスは顔を曇らせる。

「いや、ケンカとかそんな単純な話じゃねえ。あいつの事考えもしねえで好き勝手やってきた俺が悪い。だから何としてもあいつを見つけて謝りたい。これからの事ちゃんと話し合いたいんだ。」

　深刻な顔つきのホルスにただの兄弟喧嘩ではないと察した彼は顎に手を当てて唸った。

「何があったのかワシに話してみる気はないか？　そうじゃ、ちょっと神頼みするくらいの気持ちでの。もしかしたら何か道が開けるかもしれぬぞ？」

　ベスはそう言ってホルスの顔を覗き込む。その真っ直ぐな瞳に毒気を抜かれて、ホルスは思わず頬を緩めた。

　何だか調子が狂うな。

　そう思ったが、この男になら話してもいい。何故だかそう感じた。

　ホルスの話を一通り聞いたベスは、何か名案でも思い付いたように人差し指を立てた。

「お主神官がいなくなったと言ったが、実は昨日ある男を見かけての。力尽きたように倒れておったから介抱したんじゃが、そう言えばそれらしい服装をしておった。」

「本当か！？　……でもその事とアヌビスにどんな関係が？」

ベスはまあ聞け、と言ってその場に腰を下ろした。

「聞けば数日殆ど飲まず食わずで働かされ自分はそこから逃げてきたのだと、そう言っておった。」

「それってやっぱ重労働、とか……？」

　やはり神殿か何かを建てるつもりだったのだろうか。炎天下の中永遠と働かされる神官達を思うと胸が痛い。

「いや、祈りを捧げろと、そう言われたらしい。」

　祈り？

　予想外の答えにホルスは目を丸くした。

　確かに祈りを捧げるという意味では神官を連れていくのが最適だとは思うが、やり方があまりにも短絡的だという事はホルスにも分かった。

「確かにより多くの人の信仰心や祈りが神にとって最も重要である事はお主も知っておるじゃろうが、無理やりそんな事をさせて効果があるとは思えん。」

「それくらい焦ってた、とか？」

「急を要したという事か。なくはないが所付け焼刃のようなものじゃ。効果など知れておる。」

「一体誰がそんな事させたっていうんだよ！それじゃあそこに残っている神官達は今も——。」

「そこでだ、その神官達が祈りを捧げた場所というのが、『原初の丘』だったそうじゃ。」

　原初の丘。

　初めて耳にする言葉にホルスはベスを見やる。

「全ての神の始まりとされる創造神ラーが最初に降り立った場所じゃ。……お主そんな事も知らんのか。」

「いや、勉強は苦手で……。」

　ベスに指摘されホルスは目を逸らす。

「まあいい。という事はじゃ、この一連の事件にはラーが関わっている可能性が高い。目的は不明じゃが、何らかの理由でより多くの力が必要になった、という事じゃろうな。」

　何故だろう。

　ベスの言葉を聞き、ホルスの中で何かが引っかかる。

　創造神であるラーに今更祈りが必要だとは思えない。この世神の誰よりも力を持っているのは彼なのだから。

　その時ホルスはアヌビスが言っていた「器」の事を思い出す。

「そう言えば、アヌビスが言ってた。セクメトはアメミットとして俺達みたいな半神の遺体を集めているんだって。その遺体を器として差し出さなきゃならねえって。もしかしてそれを渡してる相手ってのが……。」

　半神の体をいち早く神の体に覚醒させるために祈らせる。まさに付け焼刃のような方法だが、あり得なくはない。

　見た目だけでも神の威厳を保たなければ信仰は廃れてしまう。

　まさか、とベスは瞳を見開いた。

「お主ラーの娘に会ったのか？　その推察が正しければラーの体に何か異変が起きていると見て間違いないじゃろう。病か、呪いか。いや神ならば病という事はあるまい。いずれにせよそのやり方自体褒められたものではないの。」

　セクメトがラーの娘である事も初耳だが、創造神が力を奪われる程の呪いとは一体どれ程のものなのだろうか。

　ホルスは背筋が冷たくなるのを感じた。

「お主の話を聞いておると、その兄とやら、なかなか考えのある者に見える。そやつが一時の感情だけで出て行ったとは到底思えんのじゃ。」

「じゃあ今の話にもあいつが関わっているって？」

　ホルスはあり得ないと拳を握る。

「いや、確かに関与している可能性はあるが悪事に加担していると言いたいのではない。じゃがその家出も何か考えがあっての事だろうと思うのじゃ。」

　ベスは切り株の上に飛び乗るとホルスの肩に手を置いて微笑んだ。

「ホルスよ。どうじゃ、ここは彼を信用して少し待ってみるというのは。出て行った者を無理やり連れ戻すのは簡単ではないし得策とも思えん。」

　確かに。

　様々な事件が交錯している中、半人前の自分が闇雲に動いた所で、また周りに迷惑をかけるだけだ。

　アヌビスを傷つけてまで王になると宣言しておいて、あまりの考えのなさに呆れる。

　先程の母の言葉が頭を掠めた。

「確かにあんたの言う通りだ。あいつなりの考えがあるなら信じてみようと思う。だから俺は今の自分に出来る事をやる。」

　ホルスは改めてベスを見た。

「ベス。戦いの神であるあんたに修行を頼みたいんだ。俺に戦いというものを教えてくれ。」

　真剣な顔つきのホルスに対し、ベスは朗らかに笑った。

「ワシが見てやってもいいが、修行と言うならワシよりも最適な奴がおる。道のりは険しいものじゃがそれもまた修行というものじゃ。どうじゃ、ついて来るか？」

ホルスは覚悟を決め、頷いた。

＊＊＊

ドンッ——

　玉座が壊れるのではないかと思う程セトは勢いよく立ち上がった。

　その形相に周りの神官達が震え上がる。

　一方のアヌビスは彼がどれだけの威圧感を持って距離を詰めようと、やはり表情一つ変えなかった。

「それではまるで答えになっていないぞアヌビス。その程度の理由で俺の元へ来たと？何故この国の王である俺がまだ神上がってもいない、しかもオシリスの息子を召し上げなきゃならない？兄弟喧嘩なら他所でやれ。」

　アヌビスは心の中でため息をつく。

　この男に生半可な言葉は通用しない。

——ならば。

「分かりました。そこまで俺が信用できないと仰るなら。」

ふいに弟の顔が脳裏を掠める。

……悪いな、ホルス。

俺はもう戻れない。

(※注）裁判を司る女神