おはよう、何なの、キスしよう
何時もの木造アパートの和室。
黒い遮光カーテンの隙間から、柔らかい朝の陽射しが差し込んでいる。
私はしばらく前から、此処で暮らしている。
社会の監視から逃れるように、ネズミが暗がりに逃げ込むように。
ゴキブリが部屋の隅っこに寄り付くように。
床に投げ捨てられたヘッドギア。外してくれたのはチエだろうか。いや、違う。私は自分の両手に、シンジンとした痺れが微かに残っているのに気付いた。
以前と同じように、卓袱台の上に展開された様々な数式の見取り図……
話によれば、琴音ナナの記憶データを
文字通りの
下手したら脳細胞の殆どが使い物にならなくなるぐらいに、酷く混迷した夢の中に私はいた。
今こうして、何事もなく意思の疎通が取れているのは奇跡らしい。
完全なる
そして私の''大切な人"は──
私の胸の中で泣いていた。
久しぶりだった。
こんな顔を見るのは──
「……もしかしたら、完全に意識を持っていかれて……もう戻ってこれなくなるところでした……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
甲高い声で泣きじゃくる''相棒''、''仕事仲間''、そして''恋人''は、私の胸の内で目と鼻と口からありとあらゆる体液をぶち撒け続けていた。
「……はいはい。取り敢えず落ち着いて、ね? それにこんな朝っぱらから、お隣さんに迷惑だから……ね? いや防音してんのか、うん……」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、もう二度とやらせないんで! 私がこんな仕事させたから! 二度とやらせない! 二度とやらせない! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
チエは依然として泣き続けている。
私はどうすればいいのか分からなかった。
「いやいや、仕事だからしょうがないよ。それに実際の出来事とは微妙に違っててさ、何かこう……虚実皮膜って感じで面白かったからさ! 楽しかったよ! うん。大体、あの
チエの三白眼が私を見上げる。目を真っ赤に腫らした雌猫。滅多に見せない顔。こんな顔を見たのは久しぶりだ。でも何時だったか、見たことはある気がした。
あれは何の時だったか……
「いや違います! 私のせいです! あのまま悪夢を見続けて、辛い経験とかが全部リフレインして、トラウマとか良心の呵責とか罪悪感を浴び続けた後に! 最悪……
「
「神曲」で読んだことがある。善悪の彼岸。喜びも悲しみも、全ての感情が存在しない無限の
そんな場所で一生彷徨い歩くのはごめんだ。
「……うん。でも、ずっと側で呼び掛けてくれてたんでしょ? だからチエのせいじゃないし、むしろチエのおかげだよ。ありがとう、うん……何か頭がガンガンする……あれ……」
私は目の前が熱くなるのを感じた。
滲んだ視界の向こうに長い、鮮やかなピンク色の髪が揺れている。
あの時、隣にいた人の髪──
あの時、隣で一緒に戦ってくれた人の髪──
あの時──
あの時──
私は俯いて、大粒の涙を畳の上に落とした。
チエが私の顔を両手でそっと包んで、自分の顔の方へと運んだ。
「……ルカちゃん。たまには甘えてもいいですよ。ていうか甘えてください。甘えないと殺します」
「……はいはい」
「もう見たくないものは、見なくていいです」
「……うん。お互いにね」
「……ルカちゃん」
「……うん」
「おはようございます!」
「うん……? うん、おはよう」
「本当に、おはようございます!」
「うん、何なの。本当に」
そのままモジモジしているチエに、私は小さく呟いた。
「キスしよう」
チエは肩を震わせながら頷いた。
唇の感触。
優しく伝わってくる。
忘れていた。
私はもう、一人ではないのだ。
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