第十場 漱石先生、旧友と再会する

宵闇。月明かりの中、漱石は胃潰瘍と糖尿による発作のために意識が朦朧としている。そこへ庭先から一人の男がふらりと現れる。坊主頭にひげを散らした痩身のこの男は、かつて漱石の盟友であり三十五歳の若さで没した俳人、正岡子規である。子規は縁側に座り……



子規   よお


漱石   あーあーあー、一番顔も見たくねえヤツが来やがった


子規   (苦笑して)久しぶりに会うたがになんぞねその言い草は


漱石   だってそうじゃないか、お前さんが俺の枕元に立つってことはあれだろ、俺もいよいよって事だろう?


子規   うん、まあそうなるかのう


漱石   お前、本当に正岡なのか?やっぱり人間ってえのは死ぬとユーレイになるもんなのか?


子規   知らん


漱石   知らんとは何だよ


子規   あしはユーレイじゃない、残像じゃ


漱石   


子規   そうじゃ、あしは確かに正岡子規じゃが、死んだ子規本人じゃない。あしはお前さんが記憶している「思い出の正岡子規」じゃ


漱石   なんだいそりゃあ


子規   じゃから、あしはお前さんが思い出として記憶している、お前さんの記憶の中の「正岡子規」が残像としてお前の目に写っとるっちゅうことじゃ。じゃからお前さんが知らない正岡子規についての事はあしも知らん



漱石   はあ


子規   じゃからお前さん、あしが二の腕フェチだったとか推しメンは篠田麻里子だったとか知らんじゃろ?


漱石   そうだったのか!?


子規   例えじゃ、そんなわけあるか


漱石   だよなあ


子規   お前さんはまゆゆ推しだっけ?


漱石   勝手なキャラ作りすんな


子規   はっはっは


漱石   「はっはっは」じゃねえ


子規   ……飾っといてくれとるんじゃのう、あしの絵


漱石   ん?ああ


子規   なんじゃ、それだったらもっと気合の入った絵描いときゃよかったのう


漱石   まあ、上手い絵ではないな


子規   仕方なかろう、なんせ寝たきりで描いたやつじゃ、お前さんも寝たまま肘を突いて描いてみりゃわかるわい


漱石   だが句はいいね。とてもいい


子規   ……そうかい



二人、しばし絵を眺める



漱石   なあ


子規   ん?


漱石   ひとつ訊いていいか


子規   なんぞね


漱石   もう痛くは無いのか?


子規   ……ああ、そうじゃのう、まあ、痛くは無いわな


漱石   そうか。そりゃあ良かった


子規   なんじゃ、気にしとってくれたんか


漱石   いや、まあ、な。今でも時々思い出すんだよ、お前さんを見舞いに行った時の事を


子規   そうかい


漱石   お前さんはいつも病床に臥せっていた。「痛い、痛い」と言ってな。で、お袋さんが膿でバリバリに固まった包帯を取り替えてやろうとして一所懸命にそいつをはがすんだ。そうしたらまたお前さんが「痛い、痛い」と叫びやがるんだ。今でも目に焼きついているよ、肉が腐って肋骨の見えた背中から、お前が息をする度に新しい膿が出たり入ったりしてる様を


子規   ……


漱石   だからな、俺は心の中でいつも願っていたんだよ。「正岡、早く死んでくれ」とな


子規   ……


漱石   お前がさっさと死んでくれればお袋さんはもう苦しまなくてすむ、お前も苦しまなくてすむ、俺たちも苦しまなくてすむ。だから、頼むから早く死んでくれって、心から願ったもんだよ


子規   そうか


漱石   俺をひどい奴だと思うかい?とんでもないエゴイストだと


子規   思わんよ、思わん……


漱石   俺の書く小説の主人公はみんなエゴイズムの塊のような奴らばかりだ、漱石の作家としてのテーマは「エゴイズムとの対面」なんだと評されたもんだが、結局はあの時お前に対する感情が、俺の作家としての原点だったのかもなあ。俺は生涯、あの時の自分を許せずに、小説の中で自分を鞭打っていたのかも知れん。田山花袋かたい君の事をこっぴどく批判したりもしたが、詰まる所、俺も形を変えて自分自身の「エゴイズム」をさらけ出して商売にしていただけかも知れないな


子規   ……


漱石   ああ、小説が書きたいなあ、もっと自由に、「自分」なんてつまらんもんに囚われない自由な小説を、もっともっと書きたいなあ。「則天そくてん去私きょし」だ、「則天去私」だよ正岡……きっと今なら。今の俺なら書けると思うんだがなあ。なあ正岡、俺はあとどのくらい生きられる?俺はいつ死ぬんだ?


子規   明日じゃ


漱石   !?


子規   そうじゃ


漱石   いやだー!俺はまだ死ぬわけにはいかんのだ、「明暗」はあともう少しで完結する、結末は頭の中にはもうできてるんだ、こいつを書ききるまでは死ねん!


子規   落ち着け金之助、ほいじゃからあしが来たんじゃろうが


漱石   へ?



子規   いいか良く聞け、お前さんはこの世に遣り残したことがあるじゃろ。一つは今言った「明暗」を完結させる事、もう一つは……言わんでもわかっとるじゃろ


漱石   う……


子規   お前はこのうちしか選べん。「明暗」を完結させたければ、とりあえず「明暗」を書き終わるまでは生き延びさせちゃる。じゃが……


漱石   もう一つを選んだら?


子規   明日死ぬ


漱石   いーやーだー!!!!それだったら「明暗」を書く方がいいに決まってるじゃないか!


子規   そうかな、お前さんにとって、それは最善の選択ぞな?


漱石   へ?


子規   お前さんにとって、もう一つの道を選ぶということは「明暗」を完結させるに等しい、あるいはそれ以上にお前さんの人生にとって価値のある事なんじゃあないぞなもし


漱石   俺は……


子規   まあ、ゆっくり考えるぞな。時間はたっぷり……もないが


漱石   待て、おい待て正岡


子規   じゃあの、お前さんに会えて嬉しかったぞな


漱石   正岡、待て正岡……


鏡子   (声)あなた?なにかおっしゃって?



鏡子が入ってくる。鏡子、漱石の異変に気づいて



鏡子   あなた……あなた!?誰か、誰か!主人が!



漱石、危篤状態に陥る。うわごとで子規の名を繰り返す。子規、それを見つめながら静かに退場していく。



暗転。

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