第四場 漱石先生、悪巧みする

明転。漱石またも隠れて「明暗」を書いている。



漱石   「二人は遂に離れた。そうして又会った。自分を……離れた以後の清子に……昔のままの眼が、昔と違った意味で矢っぱり存在しているのだと注意されたような心持のした時……津田は一種の感慨に打たれた」



漱石、一息ついてこっそりとまた布団に隠していた煎り豆を食べようとする。



寺田   夏目先生



寺田と岩波入ってくる。ヘルメットに白布で口を覆った異様ないでたち。



漱石   のわー!ギャングだー!


寺田   先生


漱石   か、金ならないぞ、自慢じゃないが九人家族の大所帯だ入る金なんざあっという間に右から左だ


寺田   先生、僕ですよう(顔を出す)


漱石   なんだ君達か!あーびっくりした、なんだねその格好は


寺田   「なんだね」って、いやだなあ、例の「第二次作戦」ですよ


漱石   第二次作戦?その格好がか?


寺田   そうです。今日の「木曜会」は僕が地震の際に避難する時の心構えを講義します


漱石   ほうほう


岩波   寺田先生は地質物理学では我が国最高の権威ですからね


漱石   確かに。で、それのどこが作戦なんだ?


寺田   あとは仕掛けをごろうじろ、ですよ。ふっふっふ


漱石   そ、そうかね。しかしなんだ、それが避難訓練の格好かね?


寺田   そうです(岩波をモデルにして)頭は落下物から身を守るためにこうして頭巾を被り、また突起物で怪我をしないよう手足はなるべく露出を避けるように、履物も脱げ易い下駄などではなく靴の着用をお勧めします。何より大事なのは「口」です。地震の際に発生する粉塵や火災の煙などを吸い込まないようにしっかりと保護してください


漱石   こりゃあ重装備だなあ、まるで学生ゲリラみたいじゃないか。しかしこんな装備急には揃えられんだろう


寺田   そう、そうなんですよ先生、だから普段からの準備が大切なんです。いつ、どんな時にでもすぐに地震災害に対応できるようにね。いいですか先生、「天災は忘れた頃にやってくる」んです


漱石   なるほどねえ。しかし前に大地震があったのは俺の爺さんの頃の話だよ。もう大きな地震なんて何十年も起こってないじゃないか。そんなに心配する事かねえ


寺田   いいえ先生、だからこそ「今」注意しなければいけないんですよ。これは過去の統計からなのですが、我が国では約六十年から八十年の周期で大きな地震が起こるようなのです。前回、関東で安政の大地震が起こったのはおおよそ六十年前、つまりまた関東で大きな地震が起きる可能性は非常に高いのです。僕の予測ではこの先十年から二十年以内に東京で大きな地震が起こる恐れは十分にあり得ます


漱石   むむ……


寺田   さらに!さらにそのまた六十年から八十年後、つまり一九八五年から一九九五年あたりに大地震が起こってもおかしくは無いんです。そのためにも、普段からの準備と訓練が大事なのです


漱石   ふーむなるほど、それはもっともだ。「天災は忘れた頃にやってくる」か。肝に銘じておこう。しかしうちのがそんな格好してるのを想像するとそら恐ろしいな。はっはっは


鏡子   あなた(同じ格好で入ってくる)


漱石   のわー!


鏡子   寺田さん、こんなでいいのかしら?


寺田   完璧です、バッチリです


鏡子   なんだかちょっと恥ずかしい気もしますけど


漱石   ちょっとか、ちょっとなのか!?


寺田   では「木曜会」恒例避難訓練を開始します。番号いち!


漱石   に!


鏡子   さん!


岩波   し!……あれ?これだけ?


漱石   これだけ


岩波   えー、他の人はどうしたんですか?内田百閒ひゃっけんさんや野上弥生子さんは?安倍能成よししげさんは?芥川龍之介くんとか久米正雄まさたけくんは?


漱石   みんな休みだ


岩波   そんなあ、せっかく初めて「木曜会」に参加するのでやる気満々だったのに


漱石   そんなに楽しみにしていたのかい


岩波   そりゃあもちろん!「木曜会」といえば、各界の知識人や新進気鋭の作家達が集まる、今や我が国最高峰の文化サロンですからね


漱石   ははあ、みんなと面識を持って、いずれ本を出版しようという魂胆だったか


岩波   ぎく、いいいいいやあそそそそんなことはめめめめっそうも


寺田   なんてウソの下手な人間なんだ。ではまず最初に、避難の際に最も大事なのは「お・か・し」です


漱石   お菓子?


鏡子   そこに反応するんですか


寺田   「お・か・し」とは震災時に避難する際に守らなければならない大切な三つの約束事の事です。では岩波さん、「お・か・し」とは何の略でしょう


岩波   「おまえの」「かーちゃん」「しもぶくれ」


寺田   意味がわかりません、はい先生


漱石   「おにぎり」「かきもち」「塩せんべい」


寺田   食べ物から離れてください、はい奥様


鏡子   えっ!?えーっとえーっと、「おしり」「かじりむ」「しー」?


寺田   ……


岩波   ……


漱石   ……お前すごいセンスしてるなあ


鏡子   ご、ごめんなさい、こういう時どんなふうにボケたらいいのかわからなくて


寺田   誰がボケろと言いましたか大喜利をやってるんじゃないんですから真面目にやってください。いいですか、「お・か・し」とは「押さない」「駆けない」「喋らない」の三つです。集団で移動する時にはこの三原則を必ず守ってください、いいですね


三人   はーい


寺田   では今から外へ避難します。さっきの「お・か・し」を守って落ち着いて避難してくださーい



寺田を先頭にゆっくり上手から退出する。漱石、自分だけ避難装備ではないのでとりあえず枕を頭に抱えてみんなの後に着いていく。全員なぜか下手から出てくる。最後に出てきた漱石、なぜかお釜を抱えている。



寺田   先生何持ってるんですか


漱石   ああしまった、つい反射的に


鏡子   なにが「反射的に」ですか!油断も隙も無い(取り上げる)


寺田   みなさん大変よくできました。今やったことを実際に震災が起こったときにもしっかりと行えるように、日々の備えと訓練を欠かさないでください。以上で避難訓練は終了です、お疲れ様でした。最後に、本日の最優秀賞を発表します


漱石   最優秀賞?


寺田   はい、今日もっとも優秀な成績で訓練を終えた方を今から表彰いたします。では発表します、本日の最優秀賞は(口でドラムロール)夏目鏡子さんです!


鏡子   え、わたし?


寺田   的確な判断、迅速な行動、全く非の打ち所の無い完璧な避難っぷりでした


鏡子   そ、そうでした?


寺田   そうです!奥様こそは避難訓練の達人、クイーンオブ避難訓練です


漱石   そうかなあ


寺田   そうです!


漱石   だって「おしりかじりむしー」だぞう


寺田   いいんです!いいったらいいんです!というわけで奥様に私から優秀賞をお贈りいたします(封書を手渡す)


鏡子   なんですの、これ?


寺田   じゃーん、「箱根温泉旅行二泊三日の旅ご招待券」です


全員   えー!


寺田   いえ実を言うと暮れに家内と行く予定だったのですが、生憎私の都合がつかなくなってしまいまして。それでよろしかったら奥様、うちのと一緒に温泉につきあってやっちゃくれませんか


漱石   なんだ、それじゃあはじめからコイツにやるつもりだったんじゃないか


寺田   ははは、そういうことで


鏡子   そんな、悪いですわこんなお高いもの


漱石   そうだよ寺田くん、気持ちは嬉しいが



寺田、漱石に向かってしきりにウィンクする。



漱石   なんだね



寺田、あきらめずにウィンクを続ける



漱石   だからなんなんだね気持ち悪いなあ


寺田   (独り言)ああもう腹芸の通じんオッサンだなあ!


漱石   誰がオッサンだコラ


寺田   いいから先生こっち来てください


漱石   なんだよう


寺田   (小声)だ・か・ら!アレですよアレ


漱石   アレって?


寺田   (小声)これが「第二次作戦」ですよ


漱石   あ?……(ようやく察して)あーあーあーアレかあ、そーかそーかアレか


寺田   そうですアレですよあははは


漱石   あはははそうだそうだ、おいお前、折角だからありがたく頂戴しなさい


鏡子   あなた、でも……


漱石   いいからいいから、お前も家に閉じこもってばかりでは身体に障るだろう


鏡子   だってわたし、旅行なんてしたことないから


岩波   え、奥様はご旅行された事は無いんですか


鏡子   ええ、まあ。それどころか主人と連れ立って外を出歩く事だってほとんどなんですよ


岩波   へえ、なんか意外ですなあ。洋行帰りの先生のことですからおデートなんて日常茶飯事だと思っていましたが


鏡子   そうなんですよ、このひと、人前じゃあハイカラを気取ってますけど、中身はてんで昔っ気質かたぎの江戸っ子なもんですから



漱石   (文句を言いたいが堪えて)うん、まあなんだ、あははは



寺田   ほら、先生もお許しくださっていることですし行ってらっしゃいよ。うちの家内も喜びますから


鏡子   そうですか、でも……


漱石   行ってこい行ってこい俺は大丈夫だから。いいぞう箱根は


鏡子   じゃあお言葉に甘えちゃおうかしら。寺田さん、ありがとうございます


寺田   いえいえいえ、日頃お世話になっているお礼です


漱石   わははは今日は充実した会合だったなあ。みんなも運動して喉が渇いたろう、おい、お茶を淹れておくれ


鏡子   はい(去る)


寺田   ……どうです、この「奥様を褒め殺しにして温泉旅行に行かせちゃおう大作戦どんどんどんパフパフー」は


漱石   うん、最後の「パフパフー」はよくわからんがナイスアイデアだよ寺田くん、漱石も寺田グッジョブおもてるよ


寺田   ありがとうございます。というわけではい先生(紙切れを渡す)


漱石   なんだいこりゃ


寺田   旅費と旅館の請求書です


漱石   俺が払うのかよ!


寺田   当たり前じゃないですか先生のために骨折ってるんですから!


漱石   うう、それを言われると弱いな。いくらなんだい(金額を見て)二十円!


寺田   (客席に)ちなみにコーヒー一杯十銭の時代の話ね



漱石、寺田と顔を見合わせて苦笑い。暗転。

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