幻生生物考

ひらり

プロローグ

 ここ数世紀の動物研究における最も大きなパラダイムシフトは、幻生生物発見のニュースによって引き起こされた。この未知なる生物の発見は、極めて主観的かつ予察不可能なものとして、進化論をはじめとする従来の生物学の根幹を大きく揺るがすものとなり、現在においてもその事情はまったく変わっていない。


 ウルノー・ユーリオは次のように記述している。


「これらの生物は、確固たる物理的実在性を欠き、それでいてかつ只ならない直感的実在としての才覚を持つ。それはまるで人間の存在を前提としているような詩的な曖昧さであり、生物としての神秘性と芸術性をより切実なものとしている」


 1320年に日本の文筆家小野時雨が、神の使いとして、多量の涙を流し続ける頭部をもたない鹿を描写している。鹿狩りに興じていた当時の摂政である藤原畦道は、行く手を阻む川が顔のない鹿の流した涙であることを知り、無為に鹿の命を奪ってしまった己の行動を悔いる。畦道は宮中に帰った後も、三日三晩泣き続け、その涙で大きな池ができたという。(注1)


 当然ながらこの生物は、世界中の神話に登場する神獣と同様に、長らくのあいだ、存在の可能性がありそうもない想像上の生物と考えられてきた。


 1871年、山兎(さんと)地方の殿花(でんか)山で催涙作用を持つ鹿を発見したのは植物学者のブラーム・ネッリであった。


「頭部が存在しないにもかかわらず、その鹿が泣いていることは直感的に理解できた。生命の憂愁を一身に背負ったようなその哀しみに、堪えきれず私も涙を流した」


 以降、世界各地でわれわれの知りうる常識や定説とはまったく異質な生物の発見報告が続出した。従来のいかなる分類法を用いてもこれらの生物を位置づけることはほとんど不可能であった。


 「幻生生物(げんせいせいぶつ)」という名称を考案したのは、レーモ・ガウバであるが、懐疑主義者であった彼がここに〈まやかし〉や〈幻想〉といった、嘲笑的な意味を込めていたことは明白であろう。しかしこの名称は、結果的に幻生生物全体に共有されうる性質をこの上なく端的に言い表すこととなる。


 幻生生物は、人間の「幻覚」を呼び醒ます。ここでの「幻覚」とは、病的な文脈で用いられる「幻覚(hallucination)」ではなく、触覚、味覚、聴覚、視覚、嗅覚に次ぐ第六感であり、「幻の感覚」という意味での「幻覚(phantom sense)」である。


 生物研究のすべてを人間の感覚という限りなく恣意的な尺度で置き換えることを余儀なくされたわれわれは、学術的証拠として幻覚を持ち出すことの是非と妥当性を数十年に亘って議論してきた。


 度重なる実地調査の結果、幻覚に一定の再現性が認められ、1908年のダイワープ会議で現行の「ルーマー=ワッチ規準」が採択されることとなった。この採択を皮切りに、幻生生物の調査と研究は、俄かに加速することとなる。


 一切の定量的評価を許さない幻生生物は、憎らしいほどに挑戦的であり、狂わしいほどに官能的である。われわれ人類は、幻生生物と出会い、彼らの心を知ることを使命として生まれてきたのだと、私は言い切ることができる。


(注1)現在も鹿雨池という名称で、当該地域に残存する。

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