第37話

「子供の頃に、母親とケンカした勢いで禁忌の山へ入りましてね。ちょっと困らせてやりたかっただけでしたが迷ってしまって、夜になったのに下りられなくなってしまったんです。泣きべそを掻いて、『家に帰りたい』と願いました。そしたら暗闇の中に、金色の目が二つ現れましてね。家に帰らせる代わりに大事なものを寄越せと言ったんです。子供でしたが猿神に願ってはならないと散々聞かされていましたから、取引してはいけないことは理解していました。ただ、どうしても帰りたかったんですよ。家が恋しかった。それで私の一番大事なファミコン……って分かります? 任天堂が出した初代のゲーム機です。まだRCAケーブルなんてない時代ですからテレビの後ろに、とまあ、こんな話はどうでもいいですね」

 河田は乾いた笑いを挟んだあと、一息つく。さっきから皐子の様子を窺っているが、猿神が出てくる様子はない。でも、聞いているはずだ。今も、これまでも。

「断腸の思いでファミコンと無事の下山をトレードしようとしたら、『それが一番大事なものなら許してやろう』と、ほかのもので勘弁してくれることになりました。おかげで、無事に下山はできましたよ。でも泣きながら俺を抱き締めたのは、俺が知っている母親ではなかったんです。家は家でも、他人の家に帰ることになっていました。もちろん納得なんてできませんから、すぐ猿神と取引したことを話しました。そしたら、そのよその家族と一緒に狃薗を叩き出されましてね。以来、『河田』として生きています」

 予想できた結末に、視線を落とす。人心を、子供の心を弄ぶ、猿神らしい残酷さだ。

「本当の父親は飲んだくれのクズでしたから、河田になって良かったと思わないでもありません。ただ母親は、今思えば愛情深い良い人だった。猿神を生涯許さないと決意するほどにはね。だからあなたがもし、猿神の存在と所業を知りながら見ないふりをしているのであれば」

 最後の一口を食べ終えた皐子の目が、不意に金色に光る。猿神は俺を見据えて、不敵な笑みを浮かべた。

「私が奴を殺します」

 河田の言葉に、血の気が引いていくのが分かる。狃薗出身なら、皐子と猿神の関係性も察しているはずだ。このままではまずいだろう。俺が先んじて河田を殺したところで、もう皐子は安全ではない。

「見ないふりはしていませんし、このまま見逃し続けることもありません。猿神は私が始末しますので」

「あてがあると?」

「協力者がいますので、力を借ります」

 探る河田に、正直に答えておく。皐子の命が掛かっている以上、下手に隠さない方がいい。ごまかせば、俺の反応など構わず手を下すはずだ。

「協力者ですか。どのような? 狃薗の出ですか」

「そうですね。狃薗出身の方で、やはり猿神との間に因縁があるようで。直接お会いしたことはありませんが、目を焼かれて川に流されたとか」

 ただ、信用はしていない。猿神にそそのかされたわけではなく、あまりに不審すぎるのだ。そろそろ地蔵を受け取りに来る頃だろうが、本当に「姿を現す」のか。

「目を焼かれて川にねえ」

「ご存知ですか」

「子供の頃、そんな昔話を聞かされました。子供心に、猿神より目を焼いた村人達の方を恐ろしく感じましたけどね。あそこで育った子供は、戒めとして一度は耳にしてるんじゃないでしょうか。でもどこの家、なんて分からないほど昔の話ですよ。戦後なら、さすがに警察が黙ってません」

 やはり、そうか。答え合わせのできた違和感に頷く。

――セイミョウが何をするつもりか、お前は何も知らぬだろう。あれは私を討つためだけに生き永らえている女だ、今更何を犠牲にしようと構いはせぬ。

 猿神の言葉どおりなら、超常的な力で長生きをしているのだろう。魂という意味なら、肉体はもうこの世にないのかもしれない。

「その話、一枚噛ませてもらいましょう。恨みは強い方がいいでしょうし、私はあなたを無条件で信頼しているわけじゃない。特にお嬢さんが絡むと、あなたは理性が働かなくなる。あなたが殺せなかった時のために、私が必要です」

 それはつまり、皐子から猿神を追い出せなければ皐子ごと殺すということだ。胸から消しきれない選択肢を、河田が見逃すわけがない。携帯を握る手が、汗で湿る。

「問題、ありませんよね?」

「河田さん」

「簡単なことじゃないですか。あなたが私を落胆させなければいいだけの話です。では、進展をお待ちしています」

 河田は一方的に話を終えて、通話を切る。

「だから言っただろう、毒蜘蛛が」

「黙れ」

 短く返し、汗に濡れる顔を覆う。猿神を討つためなら、いざとなればセイミョウは皐子を犠牲にするだろう。河田も、躊躇うような男ではない。確実に猿神を討てるのなら問題はないが、それならこいつはこれほど落ち着いているだろうか。どうすれば、皐子を守れる。

「……どうすりゃいいんだよ、俺は」

 弱々しい愚痴が漏れた時、ふと頭に触れる手があった。驚いて手の内から顔を上げると、心配そうに見つめる皐子と目が合う。ああ、しまった。子供の前でこんな。

「ごめんね」

 苦笑で詫びた俺に、皐子は頭を横に振る。「お父さん」「好き」と続いた手話にたまらなくなって、掻き抱いた。

「お父さんも好きだよ。皐子が一番大事だ。皐子より大事なものなんてない。大好きだ」

 しがみついた小さな手が、シャツを握り締めて頷く。

 大丈夫だ。邪魔をするのなら、全部殺せばいい。猿神もセイミョウも、河田も。毒は毒で、悪はそれ以上の悪で制すればいいだけのことだ。俺は皐子さえ守れればいい。

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