第38話 ハワラの祈り

 ホルス神殿を出た途端、ジェトは妙な空虚感と寒気に襲われた。立ち止まり、後方のホルス神殿を振り返る。

 人の気配のない夜の畑地帯と星空の下、ホルス神殿は松明の温かな灯りに照らされ、それ自体が生きて輝いているようだった。

 目にして、無性に戻りたくなる。


 その時ジェトは、ホルス神殿がカエムワセトの魔力で満たされ、イエンウィアの結界で守られている事を実感した。神殿は安全地帯。故にこの寒さと空虚感なのだ。


「やっぱすげえわ、あいつら」


 ぽそりと口にした。

 見上げると、鳥が夜空で円を描いていた。黒いシルエットとして浮かんでいるだけだが、ホルス神殿の隼の石像だと分り、ジェトの心は幾分落ち着いた。


 正直、ライラに大見得を張って出てきたが、蛇の化け物相手に自分の剣が通用するとは思えなかった。それだけに、上空に居る隼の存在は心強かった。


「アニキ! なに止まってるっス! はやくはやく!」


 先に走っていたカカルが手招きして急かした。


「ああ、悪ぃ悪ぃ」


 フードを深く被りなおしたジェトは、再び走りだした。



 三人は南側の民家の密集地帯に到着した。昼間は子供たちや女性の声で賑やかなその場所も、今は静まり返ってひっそりとしている。


「あそこだよ」


 立ち止まったハワラは、ヤシの木に囲まれた小さな一軒家を指差した。


「多分もう、寝てると思う。二人は中庭で待っていて。そっちが寝室なんだ」


 小声で指示を出したハワラに、二人は頷いた。棒きれを集めて組んだだけの簡素な門を抜けると、三人は二手に分かれた。


 ジェトとカカルは中庭へ移動し、ハワラは音が鳴らないよう細心の注意を払いながら、扉を開けた。


 奥の部屋へ入ると、その人は寝ていた。ゆっくり上下する毛布。かすかな寝息。


 ハワラはそっと母親の枕元に立った。頬骨が出た酷くやつれた寝顔がそこにあった。

 母の寝台に両手をついたハワラは、以前はもっと柔らかな輪郭をしていたその顔を上から覗きこんだ。父が死んでも、生活がどんなに貧しくても、明るく笑っていた強い女性の面影は、どこかにいってしまっていた。


 遺言は山のようにあった。しかし、結局どの言葉を母にかけるべきか分らなくなり、ハワラはカエムワセトから聞いていた簡単な守りの呪文を残す事にした。


「どうかあなたが、あなたの足元にあなたの敵を踏み敷いて凛々しくいられますように。すべての神々があなたを愛し、あなたの肉体に息を吹き込み元気にしてくれますように。願わくば、毎日十分な糧と陽の光と清き水が、あなたにもたらされますように。あなたがラーのもたらす光をその身に浴びる度に幸福を感じますように。そして願わくば……」


 願わくば、あなたの記憶から僕が消え去りますように。


 最後の一文はハワラの即興であった。しかし、呪文として確かに成立したのである。幸いであったのは、ハワラに呪文を成し遂げられるほどの魔力の才が無かった事であった。


 中庭の窓辺でハワラを待っていたジェトとカカルは、聞こえて来た呪文の切なさに二人仲良く嗚咽を漏らして泣いた。



 ランプの灯りは全ての家で消されていた。念のため、ジェトはカカルをハワラの横に付かせ、自分は少し後ろを走った。


 神殿への帰り道を急ぐ途中、ジェトは背筋に悪寒を感じて立ち止まった。目を凝らし、全身で周囲の気配を探ると、草むらのそこかしこから、何かがざわざわと嫌な音を立てている事に気付いた。


 ジェトは剣を抜くと、前方でこちらを振り返っているハワラとカカルに怒鳴った。


「振り返るな! 走れ!」


 その緊迫した声に危機的状況を悟った二人は、脱兎のごとく走りだした。


 左右後方から迫りくる気配を感じながら、ジェトはハワラとカカルの後ろを走り続けた。


 ホルス神殿が目の前に見えた。

 安堵した瞬間、右側から細長い影が飛んでくるのが見えた。ジェトは剣で払った。


 真二つになって地面に落ちた影は、蛇だった。

 一刀両断されてもまだ動いている蛇の生命力に、ジェトは身震いした。


 今度は左側から再び影が飛びかかって来た。隙を突かれたジェトは剣をふる暇がなかった。そこに石の隼が飛び込んで、体当たりで影を蹴散らした。


 ハワラとカカルに遅れて神殿の門を潜りぬけたジェトは、やっと後ろを振り返った。何匹もの蛇が外壁の前で見えない壁でもあるかのように、ぐねぐねと蠢いているのを見て、鳥肌を立たせた。


「へ、蛇除けの、結界」


 ジェトはその場にへたりこんだ。

 蛇が進めず蠢いているその場所はまさに昼間、イエンウィアが聖水と呪文で結界を張ったラインだったのである。


「よかった。無事に帰って来たな」


 プタハ大神殿の神官達に迎えられた三人は、肩で息をしながら明々と照らされた神殿内に走り入った。


「すげえなあんた! 呪文効いてるぜ」


 息を切らしながら興奮気味に言ったジェトに、イエンウィアは呪文が上手く作動したにも関わらず、厳しい表情で外に目をやった。


「だがこの数だ。長くはもちそうにない」


 神殿の周辺には、メンフィス中の蛇が集まったのかと思うほど、黒く細長い影の大群が地面を埋め尽くしていた。

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