二、死に場所に選んだ淵で

 天井から落ちた雫が京之介の眉間で散る。

(ここはどこだ)

 京之介が横たわっているのはあの世の入りロ、否、上下四方を岩に囲まれた洞穴である。体を起こして辺りを見渡せば、奥には祠があり、その手前、左右の石灯籠に火が入っている。

 足元には水。明かりが届かず先は見えぬが、恐らくこの水の底は先程の淵と通じているのだろう。

(まだ、生きている)

 ふと気付けば隣にれんの姿がない。手首には紐の跡が痣となって残っているだけだった。

「れん!」

 紐が解けておのれ一人が打ち上げられたか。立ち上がり、水の向こうに目を凝らす。


「生きていたとは、運の良い」

 男の声。京之介は驚き、反射的に刀に手を掛けた。

「お前が探しているのは、この女か」

 祠の裏から色白の優男がれんを担いで現れた。男の足元に降ろされたれんは目を閉じている。顔は青白く、生気がなかった。

きは悪いが、死んではいない」

 男は空いた手を懐に入れ、れんの前に進み出た。女好きのしそうな鼻筋通った瓜実顔、切長の目は冷ややかに京之介を見る。稿模様の着流しに刀は一本、髪は髷も月代もない垂れ下がり。年の頃もはっきりしないこの男、一体。

「何者だ」

 京之介が問う。男は答えない。

「なぜ助けた」

 男は懐から引き抜いた手で何かをほうった。京之介の足元に落ちたそれは、紐。京之介とれんとを繋いでいたものである。


おれは生きている餌しか喰わん。それも女だけだ。お前をここまで連れてくる気はなかったが、紐が解けなくてな」

 刀を抜くこと音も無く、男は眼を光らせる。

「拾った命だ、泳げるなら水をくぐって浮世へ帰れ。それとも見たいか、この女が呑まれるところを」

「れんを喰う気か?」

「要らぬ命なら頂くまで」

 澄ました瓜実顔がひしゃげ、口から火のような舌が出る。

じゃか……」

 京之介は後退る。ここはあの世の入り口か。生身の人間ならまだしも、魑魅魍魎の類いとは。

「逃げるなら追いはせんぞ、己が欲しいのは女だけだからな」

「化け物が──れんから離れろ!」

 京之介が刀を抜きかけた時、

「兄上……」

 れんがゆっくりと起き上がった。


 駆け寄ろうとする京之介の前に男の白刃がぎんと待つ。

「ほほお、お前ら兄妹か。どの道結ばれぬ運命ならばせめてもの情け、二人同時に喰ってくれるわ」

「なるか!」

 素早く抜いて斬りかかるも、京之介は軽く受け流される。ぶつかり合う刀の音に、れんは身をすくめた。

「飯の前に腹を空かすには丁度良い」

 しのぎで競り合えば、男の舌が目の前でちらつく。生臭い息に巻かれて、吐き気が込み上げる。

「安心しろ、お前を喰ったら女も喰う。仲良く己の腹に納まるがい」

「死に場所くらいは自分で選ぶ!」

 京之介は後ろ跳びで間合いを切り、再び刀を立てた。瓜実顔の口は裂け、双眸には縦に瞳孔が走る。

「その、自分で決めた死に場所がこの淵だったわけだろう? この淵は己。淵に飛び込むことは己の口に飛び込むこと。今更何を怖じ気づく?」

「化け物に喰われて果てるのが望みではない」

 京之介が断じれば、

「笑わせる」

 裂けた口が開き二股の舌が踊る。

「四の五の言ってもお前は死にたくないだけよ。心中する気があるのなら女を殺して手前も腹をかっさばけば済むこと」


 男は半身はんみを引いて、れんの着物を掴んだ。右で喉元に刃を突きつけ、左でれんを後ろ手に捻り上げ、立たせる。

 覚束ぬ脚で支える体は男の腕に為されるがまま。ほつれ髪、紅の剥げた唇。苦悶に歪むれんの顔を男の舌がねぶる。

「何をする!」

 構え直して一歩、間を詰める京之介を、柔肌の前で光る白刃が押し止める。惚れた女を質に取られた今、出来るのは歯軋りだけだ。

「女はどうだ、喰われたいか? どうしてもと言うなら見逃してやらんでもない」

 舌先はれんの首筋へ、刀を持たぬ手はれんの胸元へ。よだれを啜り上げる男のまなこは蛇そのもの、睨まれて京之介は動けない。

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