第 32 話 潜めた愛情


『私達が最初に言ったことは覚えてる?』クレハ・アードロイドは言った。


 瞬間、リハナは自身の身体が強張っていくのが解った。足先から頭のてっぺんまで、丈夫で折れない棒がつっかえているかのようだ。全身の至るところから血が抜けていくような寒気がした。


 電話の相手は、忘れもしないマーダー小隊のリーダー、憧れの彼女の声に間違いなかった。


 神宮寺じんぐうじから事前に聞き及んでいた。「俺がお前の部屋に行く前に、未月空みるくちゃんから連絡があったんだ。クレハ・アードロイドから接触があった、ってな」


「クレハさんから……!」リハナは頬を引き攣らせ、笑みとも緊張ともつかない表情を作った。「あ、あの人はなんと言ってたんですか?」


「いや、まだ何も」


「何も?」


「要求を述べるにも条件があるらしい。その条件ってのは、俺がいないと喋らないらしい」


「神宮寺さんが揃ってから要求を明かす、ということですか」


「ご指名だよ」嬉しいね、と淡泊に言った。「まあ、昨日の時点でアイツらは俺をどうにかする気満々だからな、俺に直接交渉を持ちかけたいんだろうよ」


 ただ、神宮寺は先にリハナへの訪問を済ませたかった。そこはいつもの融通の利かなさだった。誘拐事件としては異例のことであるが、誘拐犯側に到着を待ってもらうことになった。


 欝河うつかわ未月空は、要求する側のはずの彼女達を余計に刺激してしまったのではないか、と気が気ではなかったはずだ。だが、そこは案に相違して、クレハから顰蹙ひんしゅくを買った気配はなかった。もっとも、元から感情を表に出すタイプではなかったため、その真意は定かではなかったが。


「その前に、首相は無事なんですか」それだけは確認しなければならない、と欝河未月空は瞳を鋭くした。


『首相さんは、動けない状態になってもらってはいるけど、無事だよ。ちゃんとご飯も食べさせてるし、痛めつけたりとかしてないから』クレハは意図的なのか天然なのか、こちらの心配を煽るような言い方をした。『なんだったら、元気な声を聞かせてあげようか?』


「いや、いい」それを神宮寺が割り込むように拒絶した。「中年のおっさんの泣き声とか想像するだけで鳥肌が立つ。それよりも、わざわざ俺を呼び寄せた理由をお聞かせ願おうか。さっさと本題に入ってくれよ。未月空ちゃんもそれでいいだろ?」


「未月空はよろしくありませんが、まあ仕方がないですね」欝河未月空は息をついた。


『……解った』クレハは神妙そうに言った。『本当のところを言えば、首相さんは喚き散らかしていて、みっともなかったからアイーシャがムカついて気絶させちゃってたから、正直助かった』


「ガッツリ危害加えてるじゃねえか」


『大丈夫、命に別状はないから』


 あっさりとした物言い。その血が通っていないかのような彼女の様子に、リハナは首をきゅっと窒息しない加減で鷲掴みにされたかのような不安を抱いた。その言動自体はいつものはずなのに、いつになく冷淡に聞こえ、彼女の中の得もいわれぬ牙城が崩れていくような気がした。


「誘拐犯が身代金を、危ない橋を渡ることなく手に入れるには」欝河未月空が言った。「人質は安全に保管しておいて、要求額を手に入れたら迅速に家族の方々に返すことです。返さず、再度交渉……と表現するにはあまりにも幼稚すぎる所業ですが、とにかく額を引き上げてもう一度人質との交換を持ち掛けたり、いつまでもズルズルと一家庭に固執するような真似は悪手です。関係を続ければ続けるほど、警察は相手の癖や習慣やパターンを掴んでしまいますからね」


「相手に捕まえるチャンスを無制限に与えちまうからな」


「時に、誘拐した傍から人質を殺す残虐な行為を犯す事例がありますが、つまりそれは追いかける側を抑制させる手段を自ら手放したということ。助けるべき人の喪失を知った警察は、何が何でもその悪質な大罪人を捕らえようとするでしょう。――私がこれを言った意図は伝わりましたか?」


『大丈夫。それくらいの定石は解ってるつもり』ただならぬ威圧を電話越しに与える欝河未月空に、それが伝わっているのかどうか判断がつかないクレハは平常と変わらない返答をするだけだ。『そもそも、私達の目的は身代金じゃないけどね』


「そうだな。お前らの目的は俺だもんな」


『厳密には、それも少し違うけど』


「違うのか」


『誰が好き好んで、君みたいな評判の人と関わりたいと思う?』


もっともだな」神宮寺は平然と言葉を返した。


 『禁忌の人物史アカシックエラー』は地球が抱える最終兵器。その威力は地球すら扱いに困り、次元を超えた異世界の住人すら認める最強っぷり。そんな人間に近付きたいと思う人のほうが希少なのは想像に難くなく、一歩引いた眼で見られるのは慣れているのだろう。


『私達の目的を達成させるには、君との戦いは避けられないと思う。だから、今回こういう場を設けさせてもらった』


「俺と戦うためだけなら、わざわざ首相を誘拐する必要はねえと思うけどな」


『首相さんは保険。君と真正面に戦って、私達が勝てる保証はない』


「それは、首相を素直に返すつもりはない、という意思表示と見て取っていいですか?」欝河未月空は鋭く言葉尻を捉えた。


『違う。首相は返す。ただ』


「ただ?」


『私達の有利なフィールドに誘い込むための餌』


 首相は飽くまでも、神宮寺玲旺れおという人間を自分達の指定する場所に誘い込むための撒き餌でしかなかった、というわけだった。


『だから、厳密には首相じゃなくてもよかった。というか、昨日とかでそれなりに君の人となりを分析してみたけど、日本の重鎮を盾にしたぐらいで怯むようなタマじゃないと判断したのもある』


「よく解ってるじゃねえか」まるで首相の命に頓着などない、と言わんばかりの言葉に欝河未月空が睨んでくるが、彼はまるで意に介さず、「とはいえ、無視していい人材でもない。だから、餌か。魚が釣れたら、餌の所在なんざどうでもいいもんな。言い得て妙だ。それで、俺を釣り上げて何がしたい?」


『私達の目的は、【禁忌の人物史アカシックエラー】の殲滅、そして、その後の地球への侵略』クレハは言葉を落とした。『侵略して、貴方たちの世界を支配すること』




 侵略。

 リハナの頭にその言葉が、まさに他の物事を支配するかのように鎮座した。

 瞬間的に思い出されるのは、街中を蹂躙する『マキナ』の光景だった。いや、街中を蹂躙しているのではない。奴らの犠牲になった人々を、街の雑多な風景の一部にしては絶対にいけない。

 続き、その思い浮かんだ『マキナ』の残虐な姿が捻れるように歪み、その奥から現れたのは、彼女のよく知る、憧れの人物で、その人が持つ剣が助けるべき人々の頭に振り下ろされようとしていて――――


 そこでリハナは耳を塞ぎ込んだ。頭を左右に振る。落ち着け、と自分に言い聞かせた。


 クレハと神宮寺、そして欝河未月空の会話は続いていた。


「『禁忌の人物史アカシックエラー』の殲滅に地球の支配、ですか」ふっ、と欝河未月空は鼻で笑うようにした。「それは我が星も甘く見られたものですね。まるで、『禁忌の人物史アカシックエラー』を退くことができれば容易く我々を排他できるかのような言い方だ」


『事実、そうでしょ? 【マキナ】にも他の異神世界にも、貴方たちには対処のしようがない』


「お言葉ですが、貴方がたは『世界の扉ミラージュゲート』周辺に駐屯する派遣部隊でしかないんですよ」


『……何が言いたい?』


「その程度で地球を知った気になるな、ということです」欝河未月空は、堂々と侵略宣言をしてきた敵に怯むことなく立ち向かうように言った。「地球の広さ、そこに住む人類の多さ、これまで培ってきた文明の偉大さ。貴方がた三人だけでどうにかできると本当にお思いですか?」


『……別に、私達三人だけじゃない』


 ピク、と欝河未月空は眉を少し動かした。視線を傾け、神宮寺の顔を見た。視線を向けられた彼も、頷く動作を見せた。


 誘導尋問、と呼んでいいのか解らないが、とにかくこれが彼女達の狙いらしい。


『【異神五世界平和条約】が今も無碍むげにされずにいるのは、【禁忌の人物史アカシックエラー】の報復が怖いから。これは間違いない』


「そうですね。誠に不本意ですが、彼がいなければ私達の今はなかったことでしょう」


 神宮寺は肩を竦めた。


『逆に言えば、【禁忌の人物史アカシックエラー】さえいなければ、【異神五世界平和条約】は破棄されて、地球はまた異神世界の格好の的になるということ。力で押さえてきていたものが、押さえがなくなったことで一気に吹き出すことになる』


 神宮寺玲旺がいなかった世界線。そんなのは地球人にとっては考えたくもない未来だろう。知性がない『マキナ』の対処に追われるだけでも精一杯の日本が、他の異神世界からの攻撃を受けるようになれば――確かに言えるのは、今の常識が瓦解し、世界の在り方が決定的に変わるということだった。


『そして、その溜め込んだものの中は、【ヘルミナス王国】だって例外じゃない』


「ヘルミナス王国……しかし、彼らは進んで私達と同盟を組んだのでは?」


『そのときはまだ正確な戦況分析ができていなかった。確実な利益摂取ができる選択肢を取ったに過ぎない』


 もしも、『禁忌の人物史アカシックエラー』の存在がなければ、『ヘルミナス王国』も地球を侵略する立場になるだろう、とクレハはそう予想している。そういうことだった。


『私達はその引き金を作るための【生贄スケープゴート】というわけ』


「ハッ」神宮寺は思わず噴き出したかのような息を吐いた。「自分を犠牲にして、自国の飛躍を望む、か。そりゃ大した愛国心だな」


『……別に、愛国心とかじゃないけど』


「『獣人デュミオン』ってのは自己犠牲の塊みてえな輩の集まりなのか? 他人のためなら自分はどうなってもいい、って思うようにお国から洗脳でも受けてんのか? 人類には理解できない数式を説かれたような、最悪の気分だよ」


『どういう意味?』クレハの声色が低くなった。自身の信条を馬鹿にされた、と思ったのだろう。


 事実、神宮寺は彼女のことを嘲笑っていた。「お前らの計画は失敗するよ」と彼は言った。「無理のある計画なんだよ」


『そんなのは解ってる。【禁忌の人物史アカシックエラー】の貴方に簡単に勝利できるとは思っていない――――』


「俺のいるいないの話じゃない。俺というストッパーがいなかったとしても、お前らの計画は失敗する、って言ってんだよ、俺は」


『……どういうこと?』クレハの訝る声が聞こえた。


「ところで、質問は変わるが」神宮寺は殿様よろしく場を仕切るように話題を展開していく。「お前は言ってたよな。もしも俺が死ねば、『ヘルミナス王国』は自ずと動くと」


『……そうだけど』


「俺という対抗手段を失くした地球に、ヘルミナス王国は全戦力を上げて侵略する。それがお前の見立てというわけだ」


『そうだけど……』クレハは、神宮寺の言いたいことを計りかねているようだった。


 ということは、とリハナは思った。ということは、今回の裏切り行為は、彼女達の独断によるものなのだろうか。『ヘルミナス王国』の動きを見越し、自ら特攻を仕掛けることによって後手を支援する。きっかけを与えようとしている。


 リハナは国の内情に詳しいわけではない。父親が国の中枢に関わっていながら、そういった政治的な話に興味を抱くことはなかったし、父親も積極的に話そうとはしなかった。彼女達の活躍で、本当に国が動くのか判断はつかない。


 なのでこの際、結果がどうなるかなどは問題ではない。


 ――何故。

 ――クレハさん達は独断でなんでこんなことを……。


 その疑問だけがクレハの頭を渦巻く。


 神宮寺は不敵な笑みを浮かべ、戸惑いが声からも伝わってくるクレハの眼前に、手の平をひらひらと風を煽るかのような軽快さで佇んでいた。


「なあ、クレハさんよ」神宮寺は言った。「アンタの言う『ヘルミナス王国』の全総力には――アンタらが置いてきたリハナ・アレクトルアも含まれてんのか?」


「え?」突然、自分の名前を呼ばれたリハナは素っ頓狂な声をあげた。


『……なんでリハナの名前が出てくるのよ』クレハは何かを漲らせるかのような声を出した。


「そりゃそうだろ。奴は『獣人デュミオン』だ。お前らの世界の住人だ。だったら、奴もお前らの一味と疑うのは当然だろうが」


『リハナに何かしていないよね?』


「ああ、今はな? けど、今後も何かしないかどうかは、お前らの行動次第で――」


『リハナにもしも危害を加えたら、貴方が【禁忌の人物史アカシックエラー】だろうと関係ない。地獄に落ちても貴方を追いかけ続けて殺すよ?』


 それは紛れもなく殺意と呼べるものだった。

 憤懣ふんまんやるかたない、といった彼女の様子は送話口を通した電子音声でありながら、震える声色まで充分に再現していた。如何なる悪戯も柔和に許してきた菩薩様の堪忍袋の緒が切れるような意外性はなかったが、リハナは平淡な口調を常とする彼女の豹変ぶりに衝撃を受けた。そして、混乱した。神宮寺とのやり取り、その経緯を辿れば、彼がリハナのことを口にした途端、敵意が増幅した。そう汲み取れた。


 だからこそ、何故? そんな疑問が晴れない。


『これだけは言わせてもらう。リハナは貴方達の敵じゃない。あのは今回のことは何も知らされていない。巻き込まれただけ』


「首相官邸から姿を消すときにも、同じようなことを言っていたようだな。けどよ、謀反者の言うことを素直に信じると思うか? 大体そうなら、リハナがどうなろうがお前らには関係ない。そうだろ? 仲間じゃないんだから」


『かつてはチームメイトだった娘を案じて何か悪い?』


「ああ、悪いね。お前達のどっちつかずな態度のせいで、こっちは貧乏くじを引いてんだよ。敵か味方かも解らないペット、っつーお荷物の世話を見なきゃならねえ。お前達が本当にアイツのことを案じているのなら、あのとき一緒に連れていくべきだったな」


「ペット……!」リハナは、聞き捨てならないものを聞いてしまい、神宮寺に対して怒りが込み上げてきた。彼は明らかに『獣人デュミオン』を軽んじている。義憤を抱えた彼女は神宮寺に近付こうとした。


 そのとき、移動を開始しようとしたとき、横からさっと立ち塞がる者がいた。


 欝河未月空だった。「リハナさん、今は堪えてください」

 対抗しようと言葉を吐きかけたとき、「神宮寺さんの言ってることはすべて演技です」と小声で先制で言ってきた。


「え?」


「相手から隠したい本音を聞き出そうとするときは、多少の強引な手段は必要なんです。失礼な口を利いたことは後できっちり謝罪しますから、今は神宮寺さんに任せてもらえませんか?」


 何がなんだか解らなかった。隠したい本音? 二人は何を聞き出そうとしているのか。


 ただ、欝河未月空の切実さの込もった理路整然とした様子が、妙にリハナの高ぶる気持ちを鎮めたのも事実だった。「解りました」と気付けば言っていた。


『ペット……』スマホの向こうにいるクレハは、感情の読めぬ声で言った。AIであるハクのほうがよっぽど感情豊かだった。『はあ』とため息をつく気配があった。『少し、残念だな』


「あぁ?」


『私達がリハナを置いていけたのは、貴方たちがいたからだったのに。初対面の【獣人デュミオン】を平然と友人と呼べる貴方たちになら、リハナを任せられると思ったのに』


「クレハさん……」いつの間にかクレハの様子に邪悪なものを感じなくなっていることに、リハナは気付いていない。無意識のうちにかけていた心の鍵を彼女は解いていた。


「なるほどな」神宮寺は意味ありげに頷いた。「アンタらがリハナを置いてったのはそれが理由か」


『そうだよ。リハナの地球人を想う気持ちは本物。このまま連れていっても、激しい戦闘に心を痛くさせるだけだと思ったから、友人である貴方たちに保護してもらうつもりだったんだ』


「リハナが大事だからか?」

『当たり前』クレハは即断した。


「リハナは大事か?」神宮寺は再度確認した。

『仲間を……可愛い後輩を大切に思う感情に理由はいる?』


「リピートアフターミー! リハナダイジ!?」

『大事!』


「……」ふう、と神宮寺は息をついた。そして、呆然と立ち尽くしているリハナに、「だとよ、リハナ」と声をかけた。


『…………!?』スマホの奥で動揺が広がる気配があった。


 リハナは神宮寺のお節介に対して、ありがたいやら恥ずかしいやらで、どんな返事をすべきか反応に困った。「貴方はなんでいつも……」ぷるぷると身体は震えていた。「素直に、ありがとうございます、と言わせてくれないんですか?」

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