第16話 涙、そして

「はい、どうされました?」

「あの──、そうだ、あっ」

「はい? ……とりあえず、どうぞ」

 警察官に薦められたので、莉帆は黙って近くの椅子に座った。座布団も何もないパイプ椅子は冬はとても冷たい。それでも安心して座っていられるのは、目の前にいる警察官が悠斗だったからだ。

「ちょっと待ってな、片付けるから」

 悠斗が書類を片付けるのを莉帆は黙って待った。彼は訪ねてきたのが莉帆だとは気付いていると思うけれど、今のところ何の反応もない。敢えて知人ではなく警察官として対応しているのだろうと思い、気にしないことにした。

 莉帆が待っている間に、もう一人の警察官がパトロールから戻ってきた。悠斗は彼に立ち番を頼んでから、莉帆の前に座った。先程とは違い、莉帆がいつも見ていた優しい表情かおをしていた。本題に入る前に彼は、莉帆とは普通に話したいのに切り替えが上手くできなかった、と笑った。

「こんな近くにいたんですね」

 だから余計に勝平は、悠斗に莉帆のことを気に掛けるように言っていたのだろうか。

「何かあった? ここに来たってことは」

「はい……」

 莉帆は昼間のことを悠斗に話した。知らない番号から電話が何度も掛かってきていること、それはおそらく元彼だということ、LINEにも追加されていたので即ブロックしたこと。

「勝平にはまだ言ってないんよな?」

「はい。仕事中やったし、うるさいからスマホの電源は切ってて、仕事終わってからすぐ来ました」

 莉帆は鞄からスマホを出して、着信履歴を見せた。元彼は時間ができたのか、莉帆が交番に来るまでにも何度か電話を掛けてきていた。怖かったけれど明かりを頼りに、莉帆はなんとかここまで歩いてきた。先輩たちが付き添ってくれるという申し出は嬉しかったけれど、やはりそれは断って良かったと今は思っている。

「異常やな……これは怖いな」

「私も番号変えたほうが良いんかな……」

 そうするとおそらく連絡手段は断つことができるけれど、登録している人たちへの連絡が非常に面倒だ。それに元彼のせいで費用が掛かるのも、全く釈然としない。

「まだ……捕まってないんですよね?」

「そうやな……まだ警告止まりやわ」

 莉帆が襲われてからしばらく、警察は莉帆の生活圏を警戒してくれていたらしい。莉帆の視界に入らないようにしていたので、接近しようとしていた元彼が気付いて逃げていくのを見ることはなかった。そんなことが何度かあって、元彼には警告が出されていたらしい。

「もしかして、いま住んでるとこバレてるん……?」

「いや、見かけたのは全部この辺らしいわ。マンションはバレてないと思う」

 それなら良かった、と莉帆は息を吐いたけれど、職場の近くにいたと聞いて、また怖くなってしまった。以前に警察から緊急通報装置を渡されて持ち歩いていたけれど、使わなかったのは安全だったからではなく、先に警察が防いでくれていたからだった。

「実は──その男、莉帆ちゃんと別れてから他の子と付き合ったみたいなんやけど、その子からも被害届が出てる」

「え……他にも、ストーカーしてるってこと?」

「まぁそうやな。その子も、莉帆ちゃんが言ってたようなことで別れる決意して、今は遠いとこに引っ越して安全みたいやけど」

「私、なんであんな人と……」

 彼の本性に付き合う前に気付けなかったことを非常に後悔していた。そのおかげで悠斗と勝平に出会うことになったので少しだけ感謝しているけれど、元彼とのことは莉帆にとって最大の黒歴史だ。

 警察は莉帆の警護を強化し、元彼には警告ではなく接近禁止命令が出されることになった。

「莉帆ちゃん、一人で帰れる? タクシー呼ぶ?」

「うん……でも──」

「どうした?」

 悠斗が勤務中で動けないのはもちろんわかっている。連絡はないけれど勝平もおそらく同じだろう。二人から離れて事情を知らないタクシーの運転手と移動するよりは、少しでも安全な場所にいたかった。

「落ち着くまで、ここにいて良いですか?」

「どうぞ。何もないけど……。そこ寒いやろ、奥に入り」

 悠斗はドアから遠い椅子を莉帆に薦め、上着を持ってきて膝に掛けてくれた。立ち番をしていた後輩に事情を説明してから、温かいお茶を出してくれた。

「莉帆ちゃん、仕事は……会社はいま行ってる事務所だけ?」

「いえ……何ヵ所かあるけど、東京とか名古屋とかやから、通うのは無理です」

「なるほど。あ、佳織ちゃんは名古屋に行ったんよな? 元気?」

「はい。あの日以来会ってないけど、連絡は取ってます。また会いたいなぁ、って言ってましたよ」

「そうなんよなぁ、勝平は会ってるみたいやけどなぁ。また旅行できたら良いんやけどな……」

 近いうちに行こうとは佳織と話しているけれど、どこに行くかは全く決まっていない。どうせ行くならヨーロッパ、とは決めているけれど、莉帆はフィンランドに行ってみたいけれど、話をしているうちにいつも莉帆の英語力を上げるのが先だ、というところに辿り着いてしまう。

「悠斗さんも勝平さんも、英語もドイツ語も喋れるってすごいです」

「はは、ドイツ語な……。一緒に授業受けてても、赤点取ってるやつ何人もいたわ。そういえば勝平、最近は中国語とかハングル勉強してるって聞いた気するけど」

「えっ? ……あっ、もしかして、旅行で来る人が増えてるからですか?」

「そうらしいわ。俺はそこまでは……」

 それよりも英語をもっと流暢に話せるようになりたい、と笑いながら悠斗が席を立ったとき、大きな音で電話が鳴った。

「はい──え? ……バーで……」

 事件なのだろうか、そろそろ落ち着いたので帰れるだろうか、と莉帆は立ち上がろうとしたけれど、電話中の悠斗に止められた。

 悠斗は険しい顔で話を聞きながら、莉帆のほうを見ていた。通話の相手が電話から離れたのか、悠斗は簡単に内容を教えてくれた。

「バーで酔って暴れてる客がいたらしいんやけど、パトロール中の警察官が来たみたい……」

 悠斗は電話の向こうの様子を黙って聞いていた。客は大暴れしているようで莉帆にもその音が聞こえていた。テーブルのグラスや酒瓶を落とし、何かで人を叩いていた。男の怒号と女性の悲鳴が続き──数分後、騒動が落ち着いたのか静かになり、悠斗の顔も少しもとに戻った。

 電話の相手が従業員から警察官に代わったらしい。

「はい──あ、それは良かった──はい──はい──了解。すぐ伝えるわ、ここにいるから──いや、相談に来ただけやから。とりあえず、そっちよろしく」

 悠斗は笑いながら電話を切った。そして引き続き笑いながら席に戻り、莉帆のほうを見た。

「バーで暴れてたのは、莉帆ちゃんの元彼やったみたい」

「え……、じゃあ、捕まったんですか?」

「うん。店の女の子とか他の女性のお客さんにも絡みだして、暴力したり物壊したりしたから逮捕。まぁ、あとでストーカーの件も追加されるやろな」

「良かった……」

 莉帆は安心して涙がこぼれてきた。元彼が逮捕されたなら、しばらくは安心して過ごすことができる。もちろん一生というわけにはいかないけれど、それでも嬉しくて涙が止まらない。

「今日はゆっくり休んで。近いうちに勝平から連絡あるんちがうかな」

「……勝平さんから?」

「さっきの電話、勝平からやったよ。あいつが手錠掛けたって」

 莉帆は、勝平が元彼に手錠を掛けるのを想像してしまった。平均的な日本人男性なら負けてしまう力の元彼を押さえるのは、相当な力が必要だったはずだ。勝平は強そうだとは思っていたけれど、莉帆の想像を越えていたらしい。

「莉帆ちゃん? どうかした?」

「あ──いえ……。強いなぁと思って……元彼も相当強いのに」

 ほんの少しだけ勝平が格好良く思えてしまったけれど、それは警察官としての仕事をしただけだ。何があるかわからないから、日々鍛えているとも聞いたことはある。

「あいつなら、間違いなく守ってくれるやろな」

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