第12話

「それにしても、あの愛瑠ちゃんママを言い負かすなんて、さすが典子ね。前々から気に入らなかったのよ。似合いもしない若者のブランドを着飾って若作りなんてしちゃってさ」


 放課後の校舎裏で煙草を燻らせていた藍子は、話があると連れ出した雨宮を珍しく褒めそすしていた。嫌悪感を隠しもせずに紫煙を鼻の穴から吹き出す。


 ――そういう自分だって齢を考えないミニスカートを履いているくせ。


 教師用に設けられた喫煙スペースは、生徒から見えない校舎の死角に位置しているためか立地的に昼でも薄暗く、通気性も悪いため藍子が吸っている煙草の独特な甘ったるい臭いが滞留していた。


 もともと喫煙とは無縁の雨宮は、スーツに臭いが移りやしないかが気になるばかりで出来ることなら一刻も早く立ち去りたい一心だった。


「わざわざ時間を作ってもらってごめんね。実はさ、頼みたいことがあって」

「事前に断っておくけど、金の無心なら他の人に頼んでちょうだいね」


 先回りして予防線を張ると、媚びるような表情を途端に崩して、吸い殻が堆積している空き缶にリップがついた煙草を投げ棄てた。藍子が度々、保護者間で金銭トラブルを起こしていることは薬師寺から事前に聞いていた。


 まさか同級生とはいえ、学校関係者である自分に頼み込んでくるとは思いもしなかったが、恥も外聞もかなぐり捨ててしつこく食い下がる藍子は両手をあわせて、昔何度も聞いた覚えのある〝一生のお願い〟を何度も連呼していた。


「ちょっとでいいの。二万、いや、一万でもいいから」

「ちょっと待ってよ。その程度の金額で私に詰め寄るほど、お金に困ってるわけ?」


 そう言うと新しい煙草を取り出し、乱暴に火を灯すと指先で小鼻を掻いた。昔と変わらない――苛ついているときの癖が彼女の精神状態を物語っている。


「典子だってなんとなくは察してるでしょ。工場の経営が傾いてることくらい」

「それは否定しないけど」

「もう長いことあんな具合でね、私は現場のことなんてこれっぽっちも興味もなかったし関与してこなかったんだけど、バカ旦那ときたら危ない筋からも金を摘んでたみたい。利子も含めたら、とてもじゃないけど支払えない額よ」


 お世辞にも現在の近藤モーターが繁盛しているとは言い難いことは確かである。閑古鳥が鳴いている閑散とした工場を見たあとでは、資金繰りに困って消費者金融、はては闇金に手を出してもおかしくはない。


 他人事のように、薄ら笑いを浮かべながら紫煙を燻らせる横顔は、朱莉をイジメているときにふとせた表情そのままだった。深くため息を吐くと、校舎に背をもたれながら灰色の空を見上げて舌打ちをした。


「まだ先代の頃は経営が上向いていて、従業員だって数人いたっていうのに」


 雨宮の記憶が正しければ、近藤モーターには八名の従業員が在籍していたはず――。

 幼い頃から〝若社長〟と持て囃されていた誠也が、跡を継いですぐに経済が冷え込んでしまい、工場が建つ土地を抵当に入れるまで落ちぶれている現実に少し胸がすく思いだった。


「妻に黙って闇金から借りるような男だと知っていれば、わざわざ一虎を真似なんてしなかったってのに」

「ちょっと待って、仕込むって……まさか」 

「病気で亡くなった先代の跡を引き継いだ当初は、中古車業に手を出して新しく店舗を構えるって話もあったのよ。多角化経営? ってやつを熱く語っていた誠也が当時は勝ち組に見えたんだろうね。若くして成功を手中に収めるかもしれないとおもったら手放したくなくなって、危険日に黙ってゴムに穴を開けてやったの。そしたら一発で一虎ができたわけ」


 結局、見込み違いだったと自嘲気味に語る藍子は、誠也と結婚する遥か以前の〝井出藍子〟の時代から誰からも好かれる人気者を演じていた。仮面の下には狡猾とも言える本性を隠していたことを、当時の同級生の殆どは雨宮を除いて、知らなかったに違いない。


 昔から他人を思うがままに操っていた藍子の最大の過ちは、誠也程度の男に絆され、目先の餌に釣られて引っ掛かってしまったことに尽きる。


「で、貸してくれんの? くれないの?」

「無理ね。金の貸し借りはしない主義なの。それよりいい加減にしないと、学校側に伝えるよ」


 そこまではっきり断って、ようやく諦めたのかアスファルトに落とした煙草をヒールのつま先で消しながら、「室屋のババアがいるからいいし」と苦し紛れの言い訳じみた口調で吐き捨てた。


「室屋って、どういう意味? まさか同級生の母親にまで金の無心なんてしてるの?」


 喫煙所を後にしようとする藍子の手首を捕まえる。


「なによ、一万も貸してくれないケチな典子には関係ない話でしょ」

「はぐらかさないで。人としてどうなのって話をしてるの」

「うるさいわね。そもそもあのオバサンのバカ息子が痴漢なんてするからいけないのよ」


 力任せに腕を振られ、思わず手を離してしまった。とうの藍子は手首の調子を確認しながら、大げさに痛がってみせた。治療費を寄越せなどと言われたらかなわない。


「ちょっと待って。息子って室屋光輝のことよね。彼が痴漢なんてしたの?」


 記憶中の室屋光輝は、いつも大人しく自己主張をしない影のような男子だった。五年生になると自動的に学級委員を任された雨宮と、男子から押し付けられる形となった彼の顔はぼんやりとしか思い出せない。


 かつての同級生が痴漢をしたという事実も疑わしいが、それがどうして彼の母親から金をせびることに繋がるのか問い質すと、「誰にも秘密だからね」と前置きをして〝金の成る木〟の仕組みを語りだした。


「十年前くらいかな。室屋はとある一流企業に勤めていたんだけど、通勤電車で同じ車両に居合わせたOLに痴漢を働いたの。一回だけじゃないわよ。何度も何度も、被害者が声を上げないものだからエスカレートしていって、とうとう警察にお縄になった末に示談で解決したみたいだけど、実はそのOLが高校生の頃の後輩だったのよ。軽い気持ちで室屋家を訪問して事情を説明したら、『ご近所には話さないでくれ』ってポンと二十万渡してくれて、それから困った時にに行ってるの」


 なにが面白いのか、嬉々として話す藍子が別の生き物に見えてならなかった。生活費がままならなくなったり、遊ぶ金欲しさに十年程前から、定期的に室屋家を訪れては金を無心しているらしい。


 室屋家も然るべき機関に、例えば警察に相談するなりすればいいのに、世間体を重視するあまり藍子に言われるがまま、言い値を支払っているという。


 誠也は誠也で過去の過ちを反省しない救い難い男ではあるが、藍子という悪女に捕まったことが彼にとって最大の不幸であり、最大の罰なのかもしれない――。


 そう考えると、二人はこの上なく相性がピッタシの夫婦だと思えてきて、まるで互いを飲み込むメビウスの輪のように思えておかしくなった。


「なに笑ってるのよ」


 訝しげな眼差しを向けてくる藍子に、なんでもないと答える。未だに抑えられない衝動は深呼吸でごまかした。


「それで、室屋光輝は結局どうなったの」

「勤め先をクビになって、今は実家で引き籠もってるよ。そういえば一時期、典子のことが好きで告白したんだよね」

「さあ。興味なかったし、あまり覚えてない」


 藍子の言葉をきっかけにくだらない過去が蘇る――放課後に呼び出された先で待ち構えていた室屋光輝に、ラブレターを手渡されたことがあった。


 確か、外国の詩人のの詩の一節を引用して、小難しい内容で告白された気がする。

 あのラブレターはどうしたんだっけ――書かれた内容も手紙の行方も定かではないが、ただ「興味ない」と一言でフッたことだけは、不思議と鮮明に思い出す。


「仕方ない。典子から借りれなかった分は、ババアから頂くしかないか。それじゃあ今後も一虎のことよろしくね。雨宮先生」


 わざとらしい挨拶を残して去っていく背中を、結局止めることは叶わなかった。

 室屋の母親の代わりに警察に相談するのが手っ取り早いことは確かだが、そうなると余罪もたっぷりありそうな藍子が罪に問われることは間違いない。


 両親とは違ってまだ矯正が可能な近藤一虎と、痴漢の事実を近所に知られたくない室屋の母親の双方を傷つける事になりかねない。


「相変わらず、糞みたいな性格してるわね。藍子ったら」


 どこまでも利己的な女を呪いながら、吸い殻の山が浮かぶタールの海の中に足元で這っている蟻を摘むと、指を離して落とし入れた。


 手脚をジタバタさせてしばらくは浮かんでいた蟻だったが、力尽きて暗い水底に沈んでいく。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る