第5話 ゆびきり
〈12〉
〈12〉 ①
高校の制服に身を包んだ歩は、友人に手を振ってから、地下鉄の駅へと向かいます。
歩が通う高校は、母が勤める高校とは違い昼の部しかありません。もっとも、母の高校も、もう夜間部を廃止していました。夜勤がなくなった母は、なにかと理由をつけて夜に出て行くようになりました。
歩はその理由を詮索したことがありません。高校に進学する際に、母から宣言されていたからです。
「大学までのお金は出してあげる。でも、アンタの人生だから、アンタが決めて、自由に生きなさい」
それは母からの干渉がなくなるという宣言でもありました。
さなえと別れたあの夜から、母は歩に対して「やればできる子だから言うの」と口にしなくなりました。
中学校へ進学し高校受験が迫っても「勉強しなさい」とも言いませんでした。たぶん母は、歩に期待することを辞めたのです。
歩は自分で高校を決め、受験に合格し、入学式の日からきちんと「普通の子」として振る舞いました。
さなえを真似て「普通の子」となった歩には、無事に友達ができました。お金を要求してくることも、一緒に危ないことをすることもない、普通の友達です。
「普通」をやり遂げた歩は、今日も、分厚い学生鞄を提げて地下鉄の改札をくぐります。鞄には鉄板ではなく、教科書やノート、そして配られたばかりの進路希望表が入っています。
「ついこの間入学したばかりなのにね」と友人は困惑顔でした。歩も「そうだね」と肯いて見せました。
とはいえ、歩の将来像は決まっています。けれどどの進路を選べば望む未来に近づけるのかが、まだわかりません。
進路指導はいつから受けられるのだろう、と考えながら定期券を鞄にしまったとき。
不意に、隣の改札を通って出て行った女の人が、引っかかりました。
振り返ると、相手も足を止めて振り返っています。長い髪の隙間から、赤く塗られた唇が見えました。にぃ、と酷薄な笑みが宿っていました。
「……さなえ、ちゃん?」
女の人は改札の内と外を隔てる柵に両手を突いて、身を乗り出しました。柵を握る指は、全部揃っています。
記憶よりずっと美人になっていました。まるで大人の女の人です。
「久し振りね」さなえはにっこりと、作り物めいた笑みを浮かべます。「少しは見られる顔になったじゃない。女の子だものね。今、いくつ?」
「整形したの?」
挨拶もなく問うた歩に、さなえは笑みを消しました。心底不愉快そうに頬を歪めて、舌打ちをします。その鋭さで、さなえであることを確信しました。
「化粧よ」
「刑務所で教えてもらえるの?」
「刑務所? どうして? わたしは、犯人じゃないわ」
六堂が自首したことは、歩も知っていました。
事件後、何度か警察署に呼ばれたこともあります。とはいえ警察は事務的な確認事項をいくつか問うただけで歩を解放しました。犯人が自首したことはもちろんですが、鼻から子供が事件にかかわっているとは思いもしていない様子でした。
さなえは、けれど自分の身代りに誰が捕まったのか、古都の顛末はどうなったのか、まるきり興味がないようでした。「わたしね」と続ける声は生き生きとしています。
「海外に会社を作ったの。女の子だけの会社。男に媚びなくても生きていけるように、女の子たちだけでお金を回していくの」
「さなえちゃん、海外に行くの?」
「そう。向こうに住んで、向こうで会社を運営するの。ようやく社長の遺産をお金に変えることができたから、それが尽きるまでは帰って来ないわ」
「それ、わたしのお父さんの金庫から持ち出したお金だよね」
「そう。だから」さなえは身を乗り出して、歩の頬に顔を寄せます。「歩の会社でもあるの」
「じゃあ、わたしも雇ってくれるの?」
「雇わないわ。共同経営者だもの。わたしたちは、対等でしょう?」
ふふ、とさなえは吐息で笑います。歩も薄く唇を歪めます。欠片も本心を語っていないことを、お互いがわかっていました。
「共同経営者……いいね。さなえちゃんが海外で、わたしは?」
「国内よ。わたしが送る品物を受け取って、あなたが日本で売りさばくの」
「取り分は?」
「わたしが八で、あなたが二」
「それ、対等?」
「労力の大きさに対しての、公正な割合よ」
「わたしの参加条件は?」
「あのときと同じよ。もう、わたしには、あなたしか、いないの。知ってるでしょう?」
歩が母を殺して帰る場所を失うこと。それがあの夜、さなえが言葉もなく提示した「条件」でした。
「割りに合わないなぁ」
彼女がなにを商う気でいるのかは知りません。歩の父はビデオテープから薬物、子供たちまで手広く商っていました。そんな会社で下働きをしていたさなえが、今さらまっとうな品を扱うとも思えません。
そもそも、さなえが持ち出した父の遺産は、事業を興すには端金でした。その遺産を元手に起業したというならば、それは現金ではなく人脈や販売ルートを転用したと考えるべきです。どう転んでも、まっとうな商売ではあり得ません。
だからこそ、さなえは歩を国内の「販売員」にしておきたいのでしょう。万が一警察の手が迫ったとしても、歩が逮捕されている間に、海外にいるさなえは行方をくらますことができます。歩との連絡を密にしておけば、連絡が途絶えた瞬間に緊急事態に陥ったことがわかります。
「まるで、警報装置だ」歩は柵をつかみます。さなえの手と歩の手が互い違いに並びます。「さなえちゃん、いざとなったら、わたしを棄てて逃げる算段してるでしょう?」
「じゃあ、話はここまでね」ふふ、と笑って、さなえは柵から体を離しました。「今度こそ、さようなら」
「ねえ」と今度は歩が柵から身を乗り出します。「その小指、どうしたの?」
さなえは左手で拳を作って、小指を立てました。
淡いピンク色の爪がてらてらと輝いています。薬指は、半分ほどしか曲がっていません。指の中程に白く、大きな横一文字の傷痕がありました。あのとき、歩が力任せに振り下ろした刃が、隣の薬指まで届いてしまったのでしょう。
歩は左手を伸ばします。彼女の小指に自分の小指を絡めます。
ゴムの弾力がありました。指が絡め返されることはありません。一方的な、歩からのゆびきりです。
「わたしね、さなえちゃんが帰って来たら、もう絶対に離れたくなかったの」
さなえは黙って顔を斜めにしました。歩が幼かったときと同じ、言葉の続きを待つ角度です。
「だから、さなえちゃんの持ち物をふたつ、手に入れたの」
ふたつ? と目を眇めたさなえの小指を、力一杯締め上げます。歩の小指の中で、偽りの小指が折れ曲がります。そのまま身を引けば、きゅぽん、と空気が抜ける衝撃とともに、さなえの小指が抜けました。
ゴム製の指の下から、半分だけになった本物の小指が現れました。歩は義指を投げ捨てます。ぎゅと皮膚の絞られた切断面に触れます。薄い脂肪越しに、骨の硬さを感じました。
さなえの体が強張るのがわかります。
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