〈8〉 ②

 約束の日、母は朝から慌てていました。

 予感はありました。覚悟もしていました。自分に都合のいいことは、期待してはいけないのです。期待したほうが悪いのです。

 だから、「ごめんね」と言われたときも、それほど落胆はしませんでした。

「他の先生が急に熱を出したって連絡があって。代わりに行かなきゃいけなくて」

 歩はいつも通り笑みを浮かべます。

「大丈夫。わかってる。気をつけて行ってきてね」

 もはや機械的に口にします。アイロンをかけてもらった浴衣が、椅子の背に掛かっていました。

 小さな鞄を小脇に抱えた母を見送るために、玄関までついていきます。

 母は「ごめんね」と繰り返しながら、パンプスに足を入れました。踵の高い靴です。いつも学校に行くときに履くスニーカではありません。

「お祭り」無意識に声が出ていました。「友達と行っていい?」

「え?」と虚を突かれた顔で母は数秒黙りました。「誰と、行くの?」

「友達」

「約束してたの?」

「これから誘ってみるの」

「……いいけど」

 母は歩越しに浴衣を一瞥しました。赤い口紅が引かれた口を開き、言葉を呑み込み、再び開き、逡巡したのち「いいけど」と繰り返します。

「お友達って、誰と行くの?」

「野分さん」

 わざと、さなえの名字を告げました。クラスの子だと誤解させるためです。母がクラスの名簿を覚えていないことはわかっていました。

 母は数秒考え込んでから、「そう」と短い息を吐きました。歩が「普通の友達」を作れたことに安堵したのかもしれません。

 母は鞄を開けて財布を取り出すと、五百円玉を歩に握らせます。

「お小遣い、無駄遣いしないでね。あんまり遅くならないように帰ってきなさい」

「お母さんは? いつ帰ってくるの?」

「……あんまり遅くならないようにするから」

 いってきます、と母は出て行きます。カツカツと聞き慣れない靴音がしました。

 それが消えるのを待って、急いでスニーカに足を入れます。スニーカの踵を踏んだまま扉を開けつつ、下駄箱の上にある鍵と小銭をつかみます。焦りすぎて母に追いつかないように注意を払いながら、近くの公衆電話へと走ります。

 夏の朝の湿度がまとわりつきました。一分も走れば、近所のたばこ屋さんに辿り着きます。店先に置いてある黄緑色の公衆電話から受話器を外し、十円玉を落とし込みます。

 #8302に続けて、さなえと決めた八桁の番号を入力します。伝言ダイヤルの自動音声が、伝言を預かる旨を話すのを待って、歩は「逢いたい」と録音します。時間と場所を指定して、電話を切ります。

 ふたりの電話はいつも一方通行でした。

 ふたりで決めた伝言ダイヤルに用件だけを録音するのです。何時にどこで、会いたい、今度の水曜日が空いている、など数秒で事足りる内容です。互いの都合によっては、指定した時間までに伝言が再生されていないこともありました。約束を取り付けられるか否かは、いつだって賭けです。

 歩もさなえも、お互いの家の電話番号を知りません。

 知っていたところで、かけられないからです。さなえを「悪い友達」だと思い込んでいる母に、さなえの存在を悟られるわけにはいきません。友達を否定され、引き離されるのはごめんでした。


 一方的に指定した午後二時に、果たしてさなえは待ち合わせ場所にいました。

 学校帰りなのか、薄っぺらい学生鞄を抱えた制服姿です。母が勤めている高校の制服でした。長いスカートを両手でバタバタと開閉して、温い風を送り込んでいます。

 歩の浴衣姿を見るなり、さなえは「なんだ、それ」と失笑しました。兵児帯の結び目が腹にあったせいです。

「おまえ、蝶々結びできんの?」

「前でなら結べるけど、後ろでやると縦になるの」

「馬鹿だなぁ、前で結んで、後ろに回しゃいいんだよ」

 馬鹿だなぁ、と繰り返して、さなえは兵児帯の結びを解きます。

「ほら、後ろ向け」と歩を反転させて、黄緑色の帯を器用に結び直してくれました。綺麗に羽を広げた蝶々が、歩の腰を彩ります。

「ありがとう」と言ってから、歩は「そういえば」と続けます。「さなえちゃんは、もうあのコート着ないの?」

「コート?」

「紫色の、藤の花が描いてあるやつ」

「ああ」さなえは少し顔を曇らせました。「特攻服とっぷくか。あれは流華のだからな……なんだ、おまえ、アレ好きなのか?」

「かっこいい」

 さなえは照れと困惑とが滲んだ苦笑を浮かべて、「で?」と話題を変えました。

「浴衣、見せたたくて呼んだのか?」

「お祭り、行きたかったの。さなえちゃんと一緒に。大通りの、夕方から歩行者天国ホコ天になるやつ」

「いいな」眩しそうに、さなえは目を細めます。「じゃあ、一回家帰るわ」

「うん」歩は大きく頷きます。「待ってる」

 おう、と手を挙げたさなえは歩に背を向けてから、顔だけで振り返りました。

「ウチ、来るか?」

「……いいの?」

「いや、期待すんなよ。汚いから。おまえ、ここで待ってたら熱中症になるだろ。誘拐されても面白くないしな」

 初めて、友達の家に誘われました。歩は駆け出し、さなえの腕にぶら下がるようにしがみつきます。

 汗ばんださなえの肌はひんやりとしていて、けれどすぐに歩と同じ熱を帯びます。じりじりと太陽がふたりを焼いていました。アスファルトから立ちのぼる熱気で頬が燃えるようです。

 それでも、さなえは「離れろ」とは言いません。ふたりでひとかたまりになって、炎天下をぶらぶらと歩きます。

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