第2話 八歳──人の火

〈4〉

〈4〉 ①

 小学校三年生になって、クラス替えがありました。

 とはいえ、新たな人間関係が一から築かれるわけではありません。一、二年生のときに歩を異物だと理解した子たちが散り散りになって、他のクラスに満遍なく「由代歩はどこかオカシイ」という認識が広がるだけです。

 当然、歩は新しいクラスにも馴染めませんでした。もはや端から馴染むことを諦めていました。もう小難しい教育番組の話題を振ろうとはしません。クラスメイトたちがバラエティ番組やアニメの話に入っていこうとも思いません。必要なときだけ必要な相手に話しかけ、最小限の会話で済ませるようにしました。

 そうして三年生を平穏に過ごしていたある日の放課後のことです。

 学校を出ると、校門前の大通り脇に先生たちが集まっていました。人垣の間から一台のスクータが見えました。白と赤で塗られ妙に攻撃的な色彩をしています。先生たちの肩越しに、バイクの持ち主らしき小さな人影が見え隠れしていました。

「きみ、免許持ってるか?」

「なにしに来たんや?」

「誰か待ってんの?」

「これ、自分のか? 盗難車とちゃうやろな?」

 先生たちが矢継ぎ早に、きつい口調で問い質しています。

 歩はランドセルの肩ベルトを握って、なるべく歩道の端っこを歩きます。先生たちともやっかいごとともかかわり合いたくなかったのです。

 視界の端でひらりと鮮やかな紫色が翻りました。先生たちに囲まれている誰かのコートの裾です。背中から膝の辺りまで美しく、桜と藤の花が這っていました。裾には『天上天下唯我独尊』と金色の刺繍がなされています。背中には白で『喧嘩上等』の文字が踊っています。そんな文言に似合わない、華奢な体の女の子でした。

「触んな!」

 女の子は尖った叫びを上げて先生を突き飛ばします。ランドセルを背負って下校していく上級生たちといくつも違わない、幼い容貌でした。

 妙な既視感を覚えて歩は足を止めます。

「警察! 警察呼ぼ」と先生の誰かが言います。

「呼べや!」女の子の絶叫が轟きました。「呼んだらええやろ! 上等じゃ」

 ふっと女の子が口を噤みました。歩を振り返ります。枯れ草めいた茶色い髪の下に鋭い眼光がありました。

 ──これ、あたしの母親なんだ

 呟きが、蘇ります。

 初めて父の仕事場を訪れたとき、大人ばかりのあのビルで、テレビを視ていた女の子でした。男の人にのし掛かられ、裸でカエルのように潰れる母親を無表情に見ていた、彼女です。

 先生たちが、勢いを失った彼女を訝る気配がしました。視線を追って、先生たちが振り返ります。その寸前で、歩は顔を伏せました。

「なんや、知り合いでもおったか?」という声を背に、怪しまれない程度の早足で逃げ出します。

 挨拶はちゃんとしなさいという母の言いつけを守れませんでした。けれど警察沙汰に巻き込まれるのはまっぴらでした。

 あの子とどこで会ったのかを問われれば、父の仕事場に行ったことがバレてしまいます。そうすれば父が叱られてしまいます。ひょっとすると母は父を赦さないかもしれません。そうなればもう二度と、父と会うことすら叶わないでしょう。母が夜間授業をしている間、夜の高校の空き教室に満ちる冷たい闇と静けさの中で、永遠にひとりで母を待っていなければならないのです。

 孤独への恐れが歩の背を押しました。早足が駆け足になります。ガタガタとランドセルが鳴りました。その音が先生たちの注意を引いてしまいそうで、歩はより一層ランドセルの肩ベルトを強く握ります。

 ぶぉん、とバイクが排気ガスを噴出する音がしました。うぃん、うぃうぃん、と苛立たしそうにアクセルが開けられます。

 無視したことを怒った彼女がバイクで追いかけてくるのではないか、と怯えます。先生たちが呼んだ警察に、彼女と一緒に囲まれるところを想像しました。

 けれど、小刻みにアクセルを開ける独特のバイク音は遠ざかっていきます。

 歩調を緩めました。息が切れています。すぐ傍を自転車が抜けていきました。びくっと体が震えて、動けなくなりました。赤や黒のランドセルを背負った子供たちが、邪魔そうに歩を除けながら通り抜けていきます。大抵の子が、友達を一緒でした。歩は自分の膝を見下ろします。薄汚れたスニーカーを見ます。

 なぜか、くたびれたジャンパーを着た六堂が脳裏をよぎりました。

 ──犀の角のようにただ独りで歩め

 呪うように、自分の名前に付帯する意味を噛みしめます。

 今さら、小学校の前を振り返りました。先生たちが首を捻りながら解散していくところです。特徴的なエンジン音も聞こえません。車道の端を地味なスクータたちがとろとろと走っているだけです。

 ひょっとして会いに来てくれたのだろうか、と歩は身勝手に考えます。それは期待でもあり、恐怖でもありました。

 彼女と会ったのは小学校一年生のあの日の一度きりです。言葉もろくに交していません。学校だって教えた覚えはありません。

 それなのに彼女は歩の学校の前で待っていたのです。

「……サイの、角」

 歩は自分の額に触れます。低いと母に言われた鼻の根元を摘まみます。

 もし歩に角があれば、誰かが会いに来てくれたはずでした。それが角目当ての密猟者であろうと、わざわざ密林の中に分け入って会いに来てくれるのです。

 それは、とても魅力的なことに思えました。

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