〈2〉 ⑤

「……あまり、オススメしないです」

「どうして?」せっかく普通であることを主張する機会なのに、と歩は首を傾げます。

「社長の仕事は恨みを買いやすいんです」

「人助けをしているのに?」

「人間はね、助けてもらった恩はすぐに忘れるんですよ。金を借りるときは俺たちを神さまみたいに崇めるくせに、返すときには渋るんです。こっちが強く返済を求めると逆恨みをする奴だっている。だから、あまり人には教えないほうがいいんです」

「人助けなのに……?」

 食い下がりながら、歩の脳裏には隣の部屋でテレビを見ていた女の子が浮かんでいました。裸の女の人を自分の母親だと言った彼女です。あれも人助けの一環なのでしょうか。

 二階の事務所に入ってきたくたびれた身なりの女性の、怯えた様子が思い出されます。

「お父さんは……困っている人にお金を貸す以外に、なにかお仕事をしているんですか?」

 福留が息を吸う気配がしました。それなのに、いくら待っても答えがもらえません。ノートを覆う手の甲が、迷うように関節を息づかせていました。

 言えない仕事なのだ、と歩は直感します。父の本当の仕事は「人助け」などではないのです。

 と、ノックもなしに扉が開きました。びくりと体が跳ねたのは、歩と福留のふたりともです。「あ」と間抜けな声を上げて、福留が姿勢を正しました。

 険しい表情の父が大股で入ってくるところでした。

「お疲れ様です」

「おう」と不機嫌そうな低音で応じてから、父は歩の隣で立ち止まります。テーブルに載ったジュースと菓子を確かめるように眺めてから、歩のノートを目に留めました。

「宿題か?」

「お父さんの仕事を調べてるの」

 福留に止められたことは告げ口しません。

 父は幾分表情を和らげると、歩の頭に手を載せました。六堂とは違って、体重を掛けない優しい触りかたです。歩の髪を掬うように撫でると、父は「そうかぁ」とため息のように言います。

「ワシの仕事、なんて紹介するんや?」

「……人助け」

 はは、と父が豪快に笑いました。「人助け」と繰り返し、ひとしきり歩の頭を撫で回し、ゆっくりと後退ります。

 父は大股で部屋を横切ると、窓際の大きなデスクの引き出しを開けました。座ったままの歩からは、中身など皆目わかりません。

 少しして、父は一枚のカードを手に戻って来ました。父は片膝を床について歩と視線を合わせます。

「なんや文句いちゃもんつけてくる奴がおったら、コレ見せたれ」


 光堂会 山上組

 代表取締役 平田忍


「ワシの名刺や」

 住所と電話番号が書かれた名刺でした。まるで働く大人の人同士のように、父は両手でそれを歩に差し出します。

「こん界隈でコレ見て黙らん奴はモグリやさかいな。みぃんなワシが片付けたる」

 ニッと片頬だけをつり上げた父は、まるで剣を佩いた歴戦の騎士のようでした。分厚い物語や絵本の中で悪い魔女に仕えている方の、どんな平民だって平気で斬捨てる方の、騎士と同じ笑いかたでした。

 歩は一瞬だけ、父の顔に見惚れます。母がどうして父を好きになったのか、ぼんやりと理解します。まるで圧倒的な魔力で世界を支配する魔女になった気分でした。父という、多くの部下を従えた騎士に守られている安心感が歩を包みます。

 悪いモンには惹かれるやろう、と六堂の囁きが耳朶に蘇ります。

 うん、と歩は心の中で肯きます。

 だって絵本の中の善い魔女は大抵、ひとりで助けを待っています。善い王子さまや勇者が現れるまで、寂しく過ごしています。

 それは、犀の角のような在り方でした。

 歩は父の名刺を両手で受け取りました。さながら戴冠式のごとく、恭しく父の名刺を額に掲げます。

 父は満足そうに微笑んで泰然と立ち上がりました。そして再び歩の頭に手を載せます。今度はずっしりと重たく、歩を押さえ付ける掌でした。

 ああ、と歩は穏やかに、覚悟を決めます。悪いことを告げられる予兆を受け止めます。

「すまんなぁ」父の、ともすれば肉食動物の唸りめいた声が振ってきます。「ちと出んならんようになってなぁ。ラーメン、良行と行ってくれやぁ。また今度、今度はふたりで行こなぁ」

 抑揚こそのんびりとしていましたが、有無を言わせぬ一方的な宣言でした。

 歩はぐっと顎を引きます。父の手が重たくてほとんど動きませんでした。

「すまんなぁ」と再び父は詫びを口にします。それが謝罪ではなく口癖に近いものであることを、歩は知っています。

 父も母も「すまん」「悪い」「ごめん」と言えば済むと思っているのです。そして母は大抵、「でも、わかったやろう。自分に都合の好いことを言われても信じたらアカンのよ。自分に都合の好いことは、信じたほうが悪いの。期待したほうが悪いの。世の中はそういう風にできているのよ。勉強になったでしょう」と続けるのです。

 父は「期待した歩が悪い」とは言わない人でした。

 父は歩の頭から手を退けながら「すまんなぁ」と三度言いました。

「どうしてもワシが行かにゃならん仕事ができてな」

 父は、期待した歩を責めません。ただ自らの立場を主張します。仕事を第一にする自分を誇らしげに語ります。

 歩は、父の一番ではないのだと、約束を反故にされるたびに思い知らされます。

「うん」歩は精一杯の笑みを作ります。「お仕事、頑張ってね」

「おう」父は力強く頷くと、長財布から引き抜いた万札を、福留に渡しました。「良行、ワシの車つこてええさかい、こいつにラーメン食わせてやってくれや」

「え」福留の顔が輝きます。「社長の車使っていいんっすか」

「おう。おまえ、免許は?」

「来月誕生日なんで、来たら即取りに行きます」

「一発合格せぇや」

 はは、と福留は苦笑して「頑張ります」と応じます。

「ああ、そうだ社長。さっきロクさんが下りて来て、保険証と金渡しました」

「ドコ行くて?」

「背中痛い言うてはったんで、たぶん整形寄って……駅前で打ってくるんやないですかね」

 福留は右手でドアノブをがちゃがちゃと回す仕草をします。それがパチンコを示すのだと、そのときの歩にはわかりませんでした。

 父は大して興味もなさそうに「そうかぁ」と唸って、「それ」と歩を顎で示しました。

「乗せたまま事故だけはすんなや。わかってるやろな」

 忠告するだけして、父は「はい」と威勢良く答えた福留に視線をやることもなく部屋を出て行きます。去り際に「悪いなぁ」と四度目の詫びの言葉が聞こえました。はっと顔を上げましたが、父は振り向くことさえせず扉を閉めました。

 それ、と歩は父の言葉を噛みしめます。福留のことは名前で呼びながら、歩のことは物のように「そいつ」「それ」と言ったのです。

 腹の底がイガイガとするのを感じます。たぶんそれは、嫉妬と呼ばれる感情でした。シワになったノートに「わたしのお父さんは」という文字がのたうっています。

「福留のほうが……」

 よっぽど父の子のようだ、と言いかけて、止めました。声に出してしまえば、本当に福留が父の子になってしまうような予感がありました。歩自身が父とのつながりを失ってしまいそうな恐怖心がありました。

 歩は唇を噛んで、書きかけのノートを閉ざします。濃緑色のランドセルに投げ入れるように、全部を仕舞い込みます。

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