〈2〉 ③

 福留に手を引かれて、歩は野分親子に背を向けます。導かれるまま奥の部屋へと入ります。

 大きな黒い革張りのソファーが向き合った部屋でした。間にはガラスの天板を載せたテーブルがあります。窓際には、ひときわ大きな飴色の机がありました。何百年も生きた大木をそのまま机にしたようです。

 大きな体を丸めて、男の人がガラステーブルにお茶とお菓子を並べていました。小さな木のお皿に、ころんと丸い湯飲みが上品に座っています。それなのに隣にあるのは袋を破っただけのスルメやチーズ、汁がこぼれそうになっている貝の缶詰です。

 ちぐはぐなもてなしに、歩は少し笑います。同時に、ここが子供の来る場所ではないことも悟りました。

「お母さんには内緒やで」と声を潜めた父の顔を思い出します。父は、本来ならば子供が来ては行けない場所に、特別に歩を連れてきてくれたのです。

 今日の「ふたりだけの秘密」はとても大切で大きなことのように思えました。

 慌ただしく、缶ジュースを両手に一本ずつ握った男の人が駆け込んできました。つい先ほど事務所から駆け出して行った人です。どうやら自動販売機で子供用の飲み物を買ってきてくれたようでした。

 お菓子を用意してくれた人がグラスを用意してくれます。

「サイダーとコーラ、どっちがええですか?」

「どっちも……」

 飲んだことがない、と告げるより早く、グラスがふたつになりました。それぞれに透明な液体と黒いそれとが注がれます。ショウショウと体の中から骨が溶けていきそうな音がします。

 福留が歩からランドセルをやんわりと奪ってソファーに置きました。歩はその隣に座ります。どこまでも沈んでいけそうな柔らかさでした。体をどこにも任せられないような不安定さに尻がもぞもぞとします。

「失礼します」と野太い声の二重奏がして、お菓子係とジュース係のふたりが出て行きます。

 どうぞ、と福留に勧められるまま、透明な液体が満ちたグラスを手に取りました。

 グラスの内側いっぱいに細かい泡が付いています。父が飲むビールのようでした。匂いを嗅ぐとビールのような甘ったるさはなく、ツンとしました。舌先を浸してみると痛みがありました。

「炭酸、苦手でしたか?」向かいに座っていた福留が腰を浮かせます。「別のものを買ってきてもらいましょうか」

 ううん、と歩は首を振ります。ほんのりと口の中に甘みが広がります。

「炭酸、初めて飲みます」

 え、と福留が目を瞬かせました。また、普通ではないのだと思い知らされます。歩は両手で握ったグラスに唇をつけて「お母さんが」とサイダーの水面に言います。

「炭酸は体に悪いからって」

「ああ、歯が溶けるって言う大人いますね。シンナーとサイダー、一緒くたにしてるんでしょう。大丈夫ですよ」

 溶けないですから、と黄ばんでギザギザになった歯を見せて福留は笑います。

 と、扉が勢いよく開きました。小さな老人が立っていました。右側に大きく体が傾いています。紺色のジャンパーのあちこちが砂だか埃だかで灰色になっていました。

「ロクさん」と福留が立ち上がります。「どうしました?」

「背中が痛んでしゃあないんで」

「ああ、保険証ですね」

 福留が大きなデスクを回り込み、小さな金庫の前で膝を突きました。ダイヤル式の錠を操作して、菓子のスチール缶を取り出します。

 ロクさんは遠慮なく部屋に入ってきて、当たり前の顔でテーブルに残っていたコーラ入りのグラスを手にとりました。どっかりと歩の向かいに腰を下ろすと、一息に呷ります。炭酸が弾ける痛みなど感じていないようです。

「なんやぁアンタ」いやにドスの利いた声で、ロクさんは歩を睨め上げます。「誰ん子や?」

「社長のご子息ですよ」

 菓子の空き缶の中にはびっしりと免許証や保険証が詰まっていました。それをぱらぱらと調べながら、福留は「えっと」と呟きます。

「名前、なんでしたっけ?」

「歩です」

「え?」驚いたように福留が顔を上げ、一拍して「ああ」と缶の中身に顔を戻します。

 どうやら歩に名前を訊いたわけではなかったようです。自分の勘違いに気づき、耳が熱くなりました。恥ずかしさで顔を伏せながら、けれど、では誰の名前を確認したかったのだろう、と歩は考えます。

「平田くんの子か」ロクさんが噛みしめるように繰り返し、歩をつま先から頭までじっとりと眺めます。「歳いくつや?」

「六歳です」

「そうかぁ。小学生かぁ。ワタシは平田くんが中学生のときから知っとるんやけどなぁ。そうかぁ、平田くんもこんな大きぃ子がいる歳かぁ。ワタシが老けるわけやなぁ」

「なに言ってるんですか」福留が、三枚の保険証をテーブルに並べながら笑います。「まだ耄碌する歳じゃないでしょう。知ってますよ。こないだ取り立てに参戦してたの」

「いやいや、昔取った杵柄で調子こいただけや。もう若いモンに任せるて決めてたんやけどなぁ」

「すみませんね。俺たち若いモンが不甲斐なくて」

 まったくや、と大きく肯きながら、ロクさんは三枚並んだ中から『三田洋二』と書かれた保健証を手に取ります。そして福留から裸の二万円を受け取りました。

「ロクさんなのに、三と二なの?」

 歩の疑問に、ロクさんは「しぃ」と人差し指を唇に当てました。ぴんと立った指の、第一関節は曲がったままです。

「病院に行くときだけ、三田さんやねん」

「ロクさんなのに」福留が天井を指します。「この人、ここの五階に住んでるんですよ」

「おじさんの名前は、りくどう、いうんやけどな」ロクさんの、曲がった指がテーブルに『六堂』と記します。「こう書いて、六堂。だから、ロク」

「六はりくって読むの?」

「そうや。ひとつ賢ぅなったな」

 歩はランドセルを開けて、中から書き取りノートを取り出します。

 学校ではひらがなの練習に使われているそれですが、小学校に入る前からあらゆる本を読んでいた歩にとっては簡単すぎて、今やただのメモ帳と化していました。先生の赤ペンによる二重丸と「もうすこし ていねいに かきましょう」というコメントが付いたページをめくった先に「六」と書き込み「りく」とふりがなをふります。

「たくさん勉強しぃや」六堂が静かに、強く言います。「アホしか居らん組織は滅ぶしな」

 ふと六堂のしわだらけで入れ歯の金具が目立つ顔に、母が重なりました。

「ロクさんも、テレビは嫌い?」

「テレビ?」

 話題の転換についていけなかったのか、ロクさんは「うーん」と唸りながら空のグラスにコーラを注ぎます。茶色い泡がもこもこと立ち、鎮まっていきます。

「別にテレビやのぅてもええんやけどな、情報にはぎょうさん触れなアカン。いろんなテレビ視て、本読んで、人と話さなアカン。そういう意味では、テレビは好きやで。チャンネル変えるだけでいろんなモンが視れるしな。平田くんはなぁ、チョイ視野が狭いさかいな。アレはいつか足すくわれるで」

 六堂は、歩の父がテレビ嫌いだと勘違いをしているようでした。テレビを嫌っているのは母なのだと伝えようとして、気づいてしまいます。

 父がテレビをどう思っているのか、歩は知らないのです。父とふたりきりの食事のときはテレビを消すように言われることはありません。けれど父が好んで視たがる番組もありません。ラジオやBGMのように着けて、消さないだけです。

 福留は父がテレビを好きかどうか知っているのだろうか、と歩は上目に彼を窺います。

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