第1話 六歳──サイの角

〈1〉

〈1〉 ①


 いじめは同じレベルの人間間でしか起こらないの、というのが歩の母の持論でした。

 だから同年代の子供たちと同じレベルに落ちてはいけないの、他の子たちより賢く聡明に、他の子たちより礼儀正しくありなさい、と母はことあるごとに歩むに言い聞かせました。高校の物理教師という立場で現場を視てきたゆえに思うところがあったのかもしれません。

 違和感は小学校に入った頃からありました。友人というものがなかなかできないのです。隣の席に着いた子が話しかけてくれることもありました。

「昨日のクイズ番組、みた?」

「好きな芸能人、いる?」

「あのアニメ、好き?」

「アイドルグループ、かっこいいよね」

 大抵がテレビ番組の話でした。けれど歩が視聴を許されていた番組は母が選んだ往年の映画や動物番組、高度な教育番組だけです。当然、クラスメイトから好きな芸能人や流行の歌を問われても答えられません。

「土曜の夜六時からだよ」と女子グループの間で流行っているアニメの放送時間を教えてくれたのは、雪野さんでした。歯に衣着せぬ物言いで少しばかりクラスから浮いていた雪野さんでしたが、ちゃんと休み時間ごとに女子グループに入ってお喋りに興じられる程度には友達がいたようでした。

「面白いから視てみてよ。わたしも最近視始めたんだ」と誘われ、期待に胸を膨らませてテレビをつけました。オープニング曲が流れ、CMが挟まり、本編が始まったところで、「ご飯よ」という母の冷たい声がしました。

 テレビを消しなさい、とは言われませんでした。けれどご飯の間はテレビをつけてはいけないルールなのです。

「今、クラスでこの番組が流行ってて……」歩は言い訳と懇願をない交ぜに言い募りました。「これ視てないと話についていけないし……」

「ご飯の間はテレビ視られないって知ってるでしょう?」母は無表情で静かに言います。

「三十分だけ……」

「ご飯が三十分遅くなったら、お風呂は何分遅くなるの? わたしは洗い物もして片付けもしなきゃいけないの。その時間も遅くなるよね?」

 自分の予定を狂わせてでも視る価値のある番組なのか、と母の眼差しは問うていました。歩は反論できず、黙って俯きました。テレビの中では女の子が友達と手をつないで楽しそうに学校に通っています。

 歩は「ごめんなさい」と呟いてテレビを消し、食卓に着きました。そんな様子を哀れんだのか、母が「視たかったのなら」と言葉を続けます。

「どうしてご飯の準備を手伝わなかったの? 三十分早くご飯にしていれば、視られたでしょう? ちゃんと考えて動きなさい。歩には考えられる頭があるでしょう? 考えられない子には、こんなこと言いません」

 歩はそれを許可だと思い込みました。一週間後に食事の支度を手伝えば話題のアニメが視られ、女子グループに入れてもらえるのだと考えました。

 けれど一週間後、食事の手伝いを申し出た歩に、母は心底呆れたという風に嘆息したのです。

「手伝いって、アンタになにができるの? せいぜいお皿を運ぶくらいでしょう? 邪魔しないで。おとなしく座っていて。できたら呼ぶから」

「六時までに食べ終われる?」

「……アンタはわたしが作るご飯より、テレビのほうが大事なの?」

 母の機嫌が急降下するのがわかりました。腹の底から体温が逃げていくのを感じます。けれど歩は一週間、ずっとこの日を心待ちにしていたのです。クラスメイトと同じ番組を視て話し合える日を楽しみにしていたのです。そういう期待が体の芯で凍っていきます。

「違う、けど……」

「違わないでしょ」

「違う、よ。母さんのご飯は大事だし、好き、だけど……」

「だけど、なに?」

「友達と、喋りたい、の」歩は母の足下だけを見て必死に訴えます。「この番組を視てたら話に入れてもらえるし……」

「歩。テレビを視ていないと話せない子は友達じゃないでしょう?」

 友達がほしくてテレビを視たいのです。きっかけがほしかったのです。けれど母は譲りませんでした。

「お友達は選びなさい。そんなものを視ないと付き合えないような子とは、付き合わなくていいの。どうしてあなたが同じレベルまで下がってあげないといけないの? 自分を高めてくれる子と付き合いなさい。いじめられたくないでしょう? アンタのために言ってるのよ?」

 結局、歩がその番組を最後まで視られたことはありませんでした。ご飯ができあがるまでの数分だけの視聴でした。歩はオープニング曲を歌えるようになりましたが、エンディング曲は知りません。知ることなく、最終回を迎えました。

 歩は女子グループに合せることを諦め、母が言うとおり自分の知る話題に付き合ってくれる子を探しました。隣の席の子やすでにできあがっている仲良しグループに、歩が視る番組の話をしてみました。けれど残念ながらアインシュタインの相対性理論や超弦理論はもちろんダーウィンの進化論にだって付き合ってくれる子はひとりもいません。

 結論から言えば、いじめには遭いませんでした。そして友達もできませんでした。芸能人やアニメを知らないことや、同年代の子供が知り得ない情報を知っていることは、クラスメイトたちにとっては些細な差だったはずです。けれど、そういう差異が生まれるに至った家庭事情を察する程度には、彼らは聡明だったのです。

 歩は明らかな異物でした。

 とはいえ、歩は「ちょっと変わった可哀想な子」「知識をひけらかす生意気な子」という程度の疎まれ具合であり、積極的に排斥されることはありませんでした。だからグループ学習で行き場がない、ということもありません。ぽつんと立ち尽くす歩を認めた担任の先生が「どこかに入れてやってくれや」と声を掛ければ、誰かが手を挙げてくれました。

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