第23話 それぞれの決断 後編

「久しぶりだね」


 その声に昔のような元気は無くなっていた。

 赤い夕日が逆光となってXの表情はよく読み取れないが、しかし笑顔ではないことだけは分かる。

 久しぶりに会うXは、かなり憔悴しているようだった。



「X!あなたは寝ときなさ……」


 突然Xの後方から聞こえた大声に、俺達は二人ともドキリと心臓を突き動かされる。

 その柔らかい怒声の主は、Xのおばあちゃんだった。

 いつかの病院ショートカットぶりに会うおばあちゃんだったが、やはり見た目は全くおばあちゃんには見えない。

 あまりにも若すぎるな。本当におばあちゃんか?


「お久しぶりですね。この前は助けてくれてありがとうね」


 おばあちゃんが俺に話しかける。

 俺はぺこりと会釈をする。

 が、しかし会話はしない。

 今おばあちゃんに構っている暇はないのだ。


「X、病気のことはもう話してるの?」


 そう言ったおばあちゃんの声はいつにもなく暗かった。


 というか、病気?

 なんの話だ?


 Xとおばあちゃんは少しの間ひそひそ話をしたのち、Xが俺に話しかけてきた。


「ちょっと二人きりで話そう」


 そう言われて俺はXに左手を引っ張られたまま、Xの家の中へと引きずりこまれるようにして入ったのだった。




 初めて入るXの家は、

「豪華」

 としか形容のしようがなかった。


 俺がいつも外から見るだけでその大きさに恐れ慄いていたこの豪邸は、言うまでもなく内装も別格であった。

 ただの玄関でさえも天井のシャンデリアの明かりに照らされてキラキラと輝いている。

 そんな舞踏会でも開けそうな洋館の一室の客間に、萎縮しきった俺は案内された。


「飲み物、緑茶でいい?」


 そう言われて少しして出された飲み物は、あの和の象徴ともいえる"緑茶"であった。

 この緑茶も、慣れない洋の空間にさぞ緊張しきっていることだろう。

 俺も同じ気持ちだ。相棒。


「お姉ちゃんからなんか聞いてる?」


 Xは優しい口調でそう問いかけた。

 俺は正直に今知っていることを話した。

 Xが学校を辞めた、ということについても。


「お姉ちゃん、言ったんだね」


 外ではよく見えなかった表情も、今ならよく分かる。

 その表情は、そこらの陰よりも暗い。


「君にはちゃんと伝えてなかったんだけど、私、学校本当に辞めたんだ」


 今更もう驚かない。


「だから、夏休みが明けたら、もう会うこともできない。もしかしたら、今日が会える最後の日かもしれない」


「本当は、君にはずっと黙っておくつもりだった。心配かけたくなくて。言ったらもう昔みたいに気楽にゲームとか交換日記ができなくなると思って。ずっと怖かった」


 俺は何があっても、何をされてもXと疎遠になるつもりはない。

 それくらい、俺はXを信用している。

 だからこそ、俺はXがなぜ学校を辞めたのかが、ずっと気になっていた。


「交換日記も、そろそろ辞めにしよう」


 突然のそんな言葉に俺はまたもやドキッとする。

 俺は日記を辞めたいとは微塵も思っていない。

 しかしこの交換日記を始めたのはXからだ。

 継続に関する決断の決定権は、全てXにあるだろう。


 少しずつ、Xは変わっている。

 あのひたすら元気でポジティブだったかつてのXは、もうそこにはいなかった。


「……」


 そんなXの顔には、いつの間にか涙が流れていた。

 本当に、静かに。なんの前触れもなく。

 声も出さずに、Xはただ泣いていた。


 Xが泣くところ、初めて見たな。

 静かに泣き続けるXの顔を見て、俺はなんとなく焦りを感じた。

 俺は沈黙を破るように、Xに学校を辞めた理由を訊いた。

 できるだけ優しい感じで。


 Xは何も喋らない。

 ただ泣き続けている。

 またもや、沈黙が流れ始める。


「うぅぅぅぅ……うわあぁぁぁぁん……」


 1分ほど経って、Xが声を上げて泣き始めた。

 その顔は全体が両手で覆われていて、指の隙間には涙がキラキラと輝いている。

 俯いて泣いているXは、さっきから全く動いていない。

 その音だけが俺の耳へと滑らかに侵入してくるようだった。



 友達が泣いているのを見ると、少し動揺してしまう。

 ……ほんの少しだけ、Yのことを思い出してしまうのだ。

 始業式、Yから告白されたあの日。

 Yの悲しげな表情を。

 喧嘩別れのようになってしまったが、あまり気にしていないでいてほしいな。

 夏休みが明けたら、ゆっくり話でもしてみるか。


 背景はよく分からないが、Xも辛かったんだろう。

 Xがここまで思い詰めた顔をしているのには、裏に何か壮大な理由とか想いがあるに違いない。

 しかし、Xは全く語ってはくれない。

 これも、俺を思ってくれてのことだろう。

 俺に心配をかけないために。


 Xの気持ちとか気配りは、ひしひしと俺の心へと伝わってくる。

 今までだって、Xは泣くのを必死に我慢してきたんだろう。

 親友のように仲の良かった姉とも、もう随分と話をしていないようだし。

 そして今日、そのリミッターが外れてしまった。

 Xに限界が来てしまったのだ。

 そんなXを見てもなぜか俺は泣くことができない。

 こんなに信用して尊敬もしているXを想っても、全く涙は出てこない。

 こんな俺は薄情なのか。


 本当は、俺はXのことを、何も知らないんだ。

 この1ヶ月間、俺はXとひたすら親睦を深めようとしていた。

 交換日記もしたし、互いの家にも行ったし、他にもたくさん互いのことを知ろうとした。

 でも、多分こういうことじゃない。

 なんというか、心から寄り添っていなかった。

 "友達"として、もっと深く知るべきだったんだ。

 俺は、こんな状況でもXになんて声をかけてあげればいいのかすら分からない。

 俺って少しおかしいのかな。


「ねえ、ねえ」


 Xはいつの間にか泣き止んでいて、少し落ち着いたようだった。


「あのさ、今、日記ある?」


 Xは少しはにかんだ表情で、俺に問いかけた。

 目が少し赤くなっている。

 俺はこんなこともあろうかと、防水のバックに日記を入れて一応持ってきていたのだ。

 俺はきっちりと閉められたファスナーをゆっくりと横に流して開ける。

 今までずっと黙り込んでいたファスナーも、ついに口を開いた。


 俺はしわのある乾いた日記を、Xに両手で手渡した。


「交換日記も、これが最後かもしれないね。ちょっと自分の部屋で日記書いてくるね!」


 Xはいつものような輝かしい笑顔で、そう言った。

 俺は一人寂しく、無音の客間に取り残されたのだった。




 Xが帰ってきたのは恐らく30分後くらいだっただろうか。

 Xはすっかりいつものように戻っていて、にこにこ笑顔だ。

 そして、俺に見慣れた日記を手渡す。



 あれ、表紙がなんか違う?

 とある文字が書き加えられているようだった。


 "オーガスト日記"


 表紙には、そう書かれていた。


「日記」

 これは俺が書いた字である。

「オーガスト」

 これはXが書いたんだろう。


「五年生になったらね、英語の勉強も始まるんだよ。"オーガスト"は日本語で"八月"って意味なんだよ」


 小学生はすぐに英語を使ってかっこつけたがるからな。

 ただのかっこつけということか。


「君もいつかは英語の勉強をするんだよ。これから時間はまだたっぷりあるんだから」


 生憎勉強はあまり好きではないんです。


 俺はXから貰った日記を一度その場で読もうとして、Xに即座に止められてしまった。


「あ! あ! 駄目! 最後の日記なんだから、家でゆっくり読みなさい」


 Xは少し顔を赤くして、目を逸らしながらそう言った。

 俺はそんなXの赤い耳を見て、少し不思議に思ったのだった。



 結局俺はXが学校を辞めた理由についてはきけないまま、またね、と言ってXの家を後にしたのだった。

 当時の俺は割と楽観的で、夏休みが終わってもまたXの家に遊びに行けばいいか、なんて考えていた。

 完全に日の落ちた星空の下を、俺はスキップで帰ったのだった。




 俺は家に帰って勝手口から家に入ると、姉が仁王立ちでそこに立っていた。

 その表情は真顔である。


「Xちゃんに会えた?」


 姉はXの心配をしていたのだろうか。

 X、たくさん泣いてたけど、

 でもなんだなんだ元気そうだったよ。


「話できたんならいいんだけど……」


 姉は少し不思議そうな顔をしていた。

 まあ姉もXの背景を知らなさそうだし、Xのことを不思議に思ったのかな、なんて俺は自己完結させておいた。



 俺は部屋に戻って、バッグから例の日記を取り出す。

 机の上に優しく置いて、上からじっと眺めてみる。

 しかし何も起こらない。


 俺は1ページずつ、なんとなく慎重にめくった。

 そして、最新のページを見る。

 俺は思わず、えっ、と声を出してしまう。

 俺はその内容を俄かには信じられなかったのだ。


『8月29日火曜日

 きゅうに学校やめるなんて言ってごめんなさい。

 みえをはってたの、ずっと。

 がんばって言おうともしたけど。

 すごくこわくて、やっぱり無理だと思った。

 きらいにならないでね。


 わたしには、あまり時間がないんだ。

 本当はもっと君ともなかよくしたかった。

 もっともっとたくさんのことを知って、

 もっともっと色んな遊びもしたかった。


 今までありがとう。

 本当に、本当に、楽しかった。

 感しゃしてもしきれません。


 またいつか、会えるよね。

 たまにはわたしのことを思い出してください。

 じゃあ、そろそろ。


 さようなら!


 P.S.

 さいしょの方、たて読みしてみて!』



 俺はずっと、Xと友達として仲良くしようとしていた。

 友達として、もっと親睦を深めようとしていた。

 でも、その行動が逆にXを悲しませていたなんて。

 Xの気持ちに気づいてあげられなかった。


 やるせない気持ちで胸が張り裂けそうだった。



 俺はXへの誕生日プレゼントに頭を悩ませながら、日記の最新ページに、クローバーがラミネートされたしおりを挟んで閉じたのだった。

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