マイナンバーカード作りませんか

戸沢 一平

第1話

 また一つ、老いを実感する出来事が起こった。


 これまでの、自分の年齢を確認した時による漠然とした感覚や、重い物を持った時や運動をした翌日の腰の張りなどとは違う、私にとっては冷酷な現実だった。


 全く意識していなかったが、酒の量が減っていた。


 五十代の前半の頃、職場の健康診断で肝機能の数値が急に高くなった結果が出たことで、妻から酒の量を減らす厳命を受けた。それ以来、家で飲む毎月の酒量が決められて、給料日に、次の給料日まで飲んで良い分だけの酒を買うことが習慣化した。

 勿論、足りなくなって我慢できないときには、密かに買い足していた。


「あら、今月はかなり残っているわね」


 朝食の支度をしている妻の一言に、ハッとしてカレンダーを見た。そうか明日は給料日。昨日の晩酌の記憶を辿ると、確かに、まだ十分な残り具合だった。何か飲む事を控えた訳でも、体調が今一つだった訳でもない。普通に、いつも通りに飲んでいた記憶しかない。

 そういえば、ここのところ、足りなくなって買い足すことが無かったのも事実だ。


 ベランダに降りて、不揃いに並べられている観葉植物に水をかけた。水を吸い込む鉢の土を見ながら、老いという実感が、スーッと体に染み込んできたことと重なった。


 洗面所で鏡に映る自分の姿を見た。昨日と何も変わってはいない。六十代半ばの頭が薄くなった、やや老けた男がいるだけだ。だが、それを見ている自分に、もやもやとした寂寥感が湧き上がっていることは、昨日まで無かったことだ。


 酒を飲めなくなったら死ぬ時だ、そう豪語していた頃があった。一日の激務が終わったという証が、口から入るアルコールだった。それは夕方であったり、あるいは深夜であったりもしたが、今日も生き残ったという勲章でもあった。


 酒が好きかと聞かれれば、好きに決まっているが、かといって、酒が好きだから飲んでいるという意識は、無い訳ではないものの、かなり薄い。


 朝起きてストレッチをして、猫に餌をやりトイレの砂を替え、観葉植物に水をやり、食事をして、仕事に行き、帰ったら、風呂に入り、晩酌をしながら食事を取り、寝る。


 それらは全て、自分が生きて、生活している行為そのものだ。好きなものも嫌いなものも全て生活の一部になっている。好きだから続けるとか嫌いだから止めるという選択肢はない。嫌いな猫のトイレの砂替えだって、猫が生きている限りやり続ける。これらは全て自分とのお約束なのだ。晩酌も、大事な、生きていることを実感する行為だ。


 妻が急須を持ち私の湯呑みにお茶を注いだ。

「ねえ、今日が異動の内示なのよね」

「ああ、ちょうど一週間前だからな」


 区役所職員の異動日は四月一日だ。その一週間前の三月二十四日が、異動する職員への内示日になっている。


「やはり今と同じ部署になるの」

「おそらくはね。正規職員と違って、アルバイトに異動は、まず無いだろう」


 私は会計年度任用職員という非常勤だ。雇用期間は一年で、三年まで延長することが出来る。来年度も雇用されることは決まったが、配属先は今日内示がある。


 六十歳で三十年勤めた会社を定年退職し、その後五年間関連企業の嘱託職員として働き、昨年三月にそこも退職した。六十五歳から年金が満額支給されるので、贅沢をしなければ、そこそこ、生活出来るだろうと思っていたが、現実には、なかなか厳しいと判明した。


 年金の支給は六十五歳の誕生月からで、しかも、二ヶ月遅れの支給となる。住民税は前年の所得をベースに計算されるので、その時に収入がなくとも否応無く徴収される。健康保険料に至っては、会社負担分が無くなるので全部自分が負担し、金額は二倍近くになる。介護保険料も然り。


 長年働いた者に対してあまりに酷い仕打ちでは無いかと、誰かに不満をぶちまけても、そんな事も知らなかったのか、で片付けられそうだ。


 更に、実家で一人暮らしをしている母親のことも気がかりだ。かなりの高齢だ。今のところ一人で何とかやっているが、そのうちに、施設に入れるか引き取ることも考えないといけない。その時には相応の出費も覚悟せねばなるまい。


 また働かねば、と思っていたところに、区報に掲載された職員募集の記事を見つけて、応募した。若干名という募集人員に対して、十数名が面接に来ていた。しかも、私以外は全て女性で、その多くが二十代や三十代と見える若者だ。これはダメかなと諦めていたが、予想に反して採用の通知が来た。


 以前の会社で採用担当も経験したことで、面接のコツを理解していたのが幸いしたのだろう。面接で口にした、実態とはかけ離れたやる気や優秀さをアピールする言葉のオンパレードは、今思うと恥ずかしい。


 経理課でデータ入力の担当となった。区役所の経理処理全般の数値をデータベースに入力する仕事で、パソコン操作が出来れば、さほど難しい業務ではない。ただ、この数値が決算書に直接結び付くので、責任は重大だ。


 湯呑みを持ってお茶を飲んだ。それに、また妻がお茶を足した。


「あのことも聞いてみてよ、マイナンバーのこと」

「ああ、何回か住民課に行ったのだが、いつもすごい人でね、なかなか聞けない」

「もう三月末なのに、まだそんなに混んでいるの?」


 マイナンバーカードを二月までに申請した人には、最大二万円分のポイントがもらえる、という政府のキャンペーンで、カードの申請者が急増していた。一年前には三割ほどの保有率だったが、今では申請者が八割近くに伸びているらしい。


 かく言う我々も、ご多分に漏れず、それに釣られた組ではある。

「何か、テレビでこればっかりやっているのよ。心配になって来て」

「テレビは何でも大袈裟に、面白おかしく放送するよ」

「持っていると危ないから、もう返納する人が多いらしいわ」

「そうは言ってもねぇ・・」


 色々とトラブルが起こっているニュースは毎日のように目にする。保険証の紐付けミスで別の人の情報が閲覧出来たとか、他人の銀行口座を登録した誤りなどがある、と言われると、誰でも不安な気持ちになるのは無理もない。


 一方で、カードを持つことの利便性も今一つ分からない。我々が作ったのは半年前ではあるが、確かに、持っては見たものの、今のところ一度も使ったことはない。


 コンビニで戸籍や住民票が取れると言われたが、毎日区役所に行っているのに、わざわざコンビニで取ろうとも思わないし、その必要も無かった。

 風邪をひいて行きつけのクリニックに行った時も、習慣で従来の保険証を提示して、「マイナンバーカードでも良いですよ」と言われたが、「あ、そうか、ではまた今度」で終わった。この時は、惜しいことをした、と少し後悔した。


 そんな状況で、妻が、実際はどうなのかを担当部署に聞いて、持たなくても不都合がなければ、もう返そうと言い出した。定年退職を機に、家の物や人間関係の整理にも力を入れていて、何でも使わないものは捨てる、社交辞令的付き合いは止めることを徹底している。銀行やクレジットカードも最小限にした。使わないカードは捨てるのが原則だ。私も、徐々に返す方向に気持ちが傾いて来ていた。


 先週と先々週の二回、住民課の担当係に聞きに行ったが、窓口には住民が列を成し、担当者は走り回っており、声をかけるのも忍びない状況で、聞けないまま今に至っている。


 いきなり返納とは、やや過剰な対応かも知れない。しかも、マイナポイントは二人とも既に使い切っており、やや、後ろめたい気もしている。何せ二人で四万円分だから、今の我が家には結構大きい支援だった。


「また様子を見て、聞いてみるけどね」

「早くしてよ。何か事故があってからでは遅いわよ」

 妻が不機嫌そうに弁当を突き出した。


 定年退職後に待っているはずだった優雅な老後への淡い期待は、金銭的な面で既に破綻し、精神的にも、どうやら難しいようだ。悩みから解放されるのは、やはり死ぬ時なのだろうか。自分自身の見通しの甘さが身に染みた。


 十時から内示が始まった。


 課長から対象の職員が呼ばれて、異動先が告げられる。予想通りというように冷静な者や驚いた表情の者など様々だ。周りの者が、内示が告げられるたびに拍手する。


 職員への内示が終了し、次は会計年度任用職員の番だ。

「ええと、山岡さん」


「はい」


 私は課長の前に進み出て姿勢を正した。


 課長が書類に目を落とした。

「山岡さんは、四月から、住民課です」


「はい?」


 予想外の言葉に耳を疑った。私は思わず聞き返した。

「住民課・・、ですか?」


 課長が微笑んだ。


「そう、マイナンバーカードの担当です」

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