13

成瀬七瀬

Revenge of Red side joker

 現実との境目にある浅い眠り、その中で夢を見ていた。夢と知りながらもリアルな光景が瞼の裏側に映し出される。


 ――子供が女性に手を引かれ歩いていた。親子だろうか? 子供は懸命に母親の顔を見上げて、何かしら話をしていた。声は聞こえない。


 夢だとわかっていながらも、微笑ましく思える光景。親と子。自分には無縁なものだからこそ、その和やかさを痛いぐらいに感じるのだ。




 しかし異変は急に訪れた。突然、二人の前に影が立ちはだかる。黒く塗りつぶされたその姿は恐怖の表れだ。母親は子供を庇うように自分の腕の中に抱き、そして――夢の視界は塞がれる。暗闇の中に鈍い衝撃音が響く。同時に、何故か、何かが『俺』の顔にへばりつく。ぬるりとした液体の感触。錆びついた臭い。


 気付く。ああ、これは血の臭いだ。


 ……むせ返るような血の臭い。












 目が覚める。


 瞼を開けると無機質なコンクリートの天井が目に映った。太さも形状も様々なパイプがまるで蛇のように天井に這いずりまわっていた。清潔ではあるが飾り気のない、見慣れた光景である。


 普段と違うのは、悪い夢から覚めた後の独特な汗の気持ち悪さ。そして夢の中以上に強烈な、血の臭い。




「……キング」


 ぽつりと言うと、室内の空気か僅かに動いた。軽い足音がする。裸足だ。彼はこちらに近付いてくる。




「おはよう、ジョーカー」


 ぬっと視界に顔を現し、俺を見下ろすキングの白い顔には、まだ乾いていない赤い飛沫が生々しく光っていた。猫のような大きな目を細めて笑う顔を見上げて、俺は小さく溜め息を吐く。




「……殺したのか。また」


 黒いシャツの袖で顔の返り血を拭っているキングに問いかけつつ、堅いソファの上に半身を起こして座り直す。昨夜はつい読書の途中で眠ってしまったのを思い出した。テーブルの上に置いてある箱から煙草を一本取り、銜えて火を点ける。毒にしかならない煙を吸い込むと心は僅かに落ち着いてきた。




「まあな。これ、戦利品。大して持ってなかったけど」


 キングはそう答え、俺の膝に紙屑を放った。煙草を口にくわえて広げてみると、紙屑に見えた物は数枚の紙幣だった。少ない金額に眉を顰めてしまう。金額のせいではなく、金が理由で殺したのではないことが明白だからだ。


「1、2、3万か。……別に殺す必要なかったんじゃないのか?」


 いつもキングに揶揄されるほどに几帳面な性格である俺は、ぐしゃぐしゃになってしまっている紙幣を無意識に伸ばしながら問いかけた。


 そうしていて、ふと思った。この金の元の持ち主はもう息をしていないのだ。




「グダグダ抵抗したからさ。人集まって来そうだったし」


 キングは床に直に座り込み、ごく自然に言う。まるで害虫を殺しただけだと言わんばかりの口調だ。いや、虫を殺すのは、その行為が善にせよ悪にせよ、殺す必要があるから殺すのだろう。


 キングは違う。必要性などはどこにも無い。多分今日の被害者も抵抗なんかしていない。界隈に人の気配もなかったんだろう。仮に殺人現場に出会しても大概の住人は逃げるのみ、通報などするはずがない。ここはそんな街だ。キングは血が見たいだけなのだ。




「……そうか。とりあえずその服を捨てて風呂に入れ。血生臭くて仕方ない」


 キングは黒い服しか着ない。返り血を浴びても、さほど目立たないからだ。しかし立ちのぼる血の臭いは誤魔化せない。おぼろげに先程の夢を思い出しかけて、そう勧めた。




「あ、俺さぁ、林檎食べたい。その金で買ってきとけ」


 キングは軽やかに立ち上がり、浴室に向かう。その背中を見送って、俺は重苦しい気持ちのままソファから離れた。


 窓に近付くと、誰かの悲鳴が聞こえる。強盗か、ひったくりか。しかしその悲鳴に驚く者はいない。慣れているから、驚く暇があれば自身の呼吸に気を遣わねばならないから。




『この街は腐ってるよ』


 相棒が昔、言った言葉が脳裏に蘇った。






 13番街。俺たちが暮らしている、この街は確かに腐っていた。いや、街と言わず国自体が腐り、狂ってしまっているのかもしれない。


 教科書では祝福の融和と呼ばれる、小さな国々が寄せ集まり、一つの国となってから何十年。国は運河を挟んで首都のある地方と、首都のない地方――1から13までの街に分かれた。


 13番街の存在する『こちら側』では民衆の貧富の格差がそのまま生命力に比例している。つまり、貧しい者は死に、金持ちは生き延びるのだ。


 それは言わば人間界の〝弱肉強食〟であり、文句はない。だが、それをある程度統治する立場であろう政府、警察、その他。所謂『お偉方』は何もしない。


 ニュースでは一人の政治家の死亡を各局で報道している。俺たちの生活するスラム街では毎日毎日何人もの人間が死んでいる。餓死や殺人や自殺や、たまには小規模テロなんかでも死人は出る。だがその一人としてニュースになることはなかった。とは言っても報道される名前すら無い者の方が多いのだから仕方のない部分もあるだろう。




 俺や、おそらくはキングもそうだった。本名なんかどこか遠くに置き忘れてきてしまった気がしていた。例えば、母親の腹の中に――母親?


 考えの途中で不意に、今朝見た夢のことを思い出す。あれは不思議に印象深い映像だった。子供の手を引き歩く、母親。俺に母親の記憶は無い。……と言うか子供の頃、同じく幼かったキングに会う以前の記憶が、まるで消しゴムで消したように存在しなかった。


 それでも初めからそこに居たように、スラム街で暮らし始めた。勿論、キングに助けられてだが。


 そんな俺が、何故あんな夢を見たのか。記憶が蘇る予兆だろうか。そう考えてはみたが、自分を戒める気持ちで打ち消した。


 ――俺は、今となってはスラム街での暮らしを確立している。キングの仕事を手伝っているだけだが、記憶が戻ったとしてももう表の世界には戻ることは出来まい。




 キングは、人殺しだ。


 それも一人や二人でなく、その人数は両手の指を使って数えても足りないぐらい『殺っている』。立派なシリアルキラー、殺人鬼と言って良いだろう。




 この街では、弱者はその全てを奪われる立場にある。生き長らえるために、攻撃することは間違いだとは思わない。しかしキングのやり方は常軌を逸していた。自分に逆らう者はまず間違いなく殺るが、それとは別に「殺したくなる」時が、キングにはある。


 涙を流し命乞いする者をキングは殺し、俺はその亡骸をその度に処理してきた。単純に処理するだけに飽き足らずにいるのも否めない。


 ――自分自身の性癖を思うと嫌気がするが、俺はネクロフィリアだった。




 そんな生活をしてきた人間が、今更母親や家族の顔を思い出しても、どんな面を下げて会いに行けば良いというのだろう。だから、あの夢のことは自分の胸の内に仕舞っておくことにした。




 そんなことを考えながら街で数少ない青果売りの店で林檎を買い、ぼんやりと足元を見ながら帰り道を歩く。伏せた俺の目に、ある種異質で、ある種見慣れた色が映り込んだ。




 地面を埋め尽くす、赤い色。


 血だ。


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