泣き虫に意地悪

 神経衰弱は一勝一敗で飽きてしまったので、今度はスピードで遊んでいた。

 速さが決め手のこのゲーム、博士も格別に素早いわけではないが、のんびり屋な清川には全く勝機が無く、三度連続で負けてしまったので他のゲームに切り替えることにした。

 次の遊びについて熟考する清川を楽しそうに眺めてから、博士は彼女を温かく見守る守護者を見ると、そっと目線を下げた。

「ねえ、藍さん。君は僕に、守護者さんとの関係性を聞いたね」

 俯きがちの表情はうまく見えないが、きっと微笑んではいない。

 少し暗くなる彼の雰囲気に、清川は控えめに頷いた。

「此処にはね、偶に、お客さんがやって来るのだけれど、そのほとんどはマボロシなんだ。それも、契約者に忘れられてしまった子ばかり。どうしてだと思う?」

 首を傾げる博士に、清川は少し考えた後で分からない、と首を振る。

 博士は「そっか」と寂しく笑った。

「大抵の子はね、生き残るために、此処に来るのさ。ふふ、その表情では、ピンと来ていないね」

 今一つ博士の言葉を捉えきれていない清川から目線を上げ、守護者の表情を確認した。

 守護者は酷く苦々しげに博士を睨んでいるものの、彼を黙らせるつもりはないようだ。

 博士の小さな唇が、弧を描いた。

「彼らは、約束を破り続けると死んでしまう。でもさ、大抵の場合、彼らは約束を守りたいと思っているんだよ。でもね、守れないんだ。だってさ、契約者とお友達でいる、なんて約束、契約者に忘れられちゃったら、守れるわけがないじゃないか」

 きっと、博士は今語った「誰か」を具体的に思い浮かべているのだろう。

 その言葉には棘というよりも、渋く濃い茶のような苦みがある。

「それに、契約者に忘れられたら、力はもらえないんだ。契約が彼らを形作るから、それが無くなっちゃったら、彼らは……ともかくさ、彼らは、契約者に忘れられてしまったら、おしまいなんだよ」

 清川は、物事を理解するのに少しだけ時間が掛かる。

 けれどそれは、丁寧に物事を見つめて思考することの裏返しであったし、理解力そのものは十分にある。

 そのため、清川は段々と博士の意図することを読み取り、青ざめていった。

 よく見つめれば、優しげだったその表情には、何か別の色が浮かんでいる。

「皆、契約者に忘れられても生き残る方法を、僕に聞きに来るのさ。守護者さんも、その一人だよ」

 「ね?」と守護者へ同意を求めて首を傾げれば、渋々ながらも頷き返した。

「助かる方法は、あるの?」

 清川が小さな声で問いかけると博士はニコッと頷いて、机の一番下の引き出しから真っ黒いリンゴのような果実を取り出した。

 一片の光も届かない闇を固めたような果実は酷く美しい黒で、どことなく博士を思わせる色だ。

「この果実を食べれば、マボロシという存在から、カクリツという存在になれる。存在の根本が変わってしまうから、契約者への想いも薄れるし、大抵の場合、現実世界には行けなくなってしまうけれど。でも、代わりに、生き残ることができるのさ。僕は、それを皆に説明して、果実を奨めたよ。守護者さんにも、お奨めしたね。振られちゃったけど」

 説明を受けた守護者は、迷うことなく首を横に振った。

 自分の存在理由は清川を守る事であり、同時にそれが幸福である。

 そのため、清川を守り続けることができないのならば、生きている理由が無いのだと、はっきり語った。

「まあ、藍さんは王子さまじゃなかったし、守護者さんも人魚姫ではなかったようだから、今となっては提案を蹴ってくれて良かった、と思わないこともないよ。でも、やっぱり、寂しかったな」

 守護者の幸せそうで迷いのない表情を思い出すと、どうにも苦々しさが込み上げて、博士は乾いた笑みを浮かべた。

 それから改めて、守護者に優しく守られたまま、消えてしまったマボロシたちを悲しむ清川に一瞥をくれる。

 意図せず厳しくなる視線は睨みがちになってしまって、それを誤魔化すために、博士は瞳を歪めて微笑んだ。

「彼らは、人間の願いからできている。自分を愛してくれる存在が欲しい、お友達が欲しい、味方が欲しい。そんなピュアで、残酷な願いからできているんだ。初めから、約束を守る都合の良い存在として、誕生させられたんだよ。守らなきゃ、死んでしまうんだ。そんな彼らの契約を守りたいという願いは、王子さまへの愛しさは、本物なのかな? 僕には偽物に思えて仕方がない。けれど、皆は否定するんだよ。ねえ、ずっと守護者さんに守られてきた藍さん。君は、どう思う?」

 まるで、会議で自分の研究を発表するように淡々と、穏やかに話した。

 熱は籠っていたが、激しい感情や清川への非難は声に出ていない。

 けれど、酷い違和感があった。

 目の前の穏やかだった少年が、静かに化け物のような怒気を放っている。

 一見すると清川に向けられているようだが、実はこの場の誰にも向けられていないソレは、博士の中でグルグルと渦巻いていた。

 考えも理解も感情も、何もかも追いつけない清川は酷く怯えたが、それでも小さく言葉を出す。

「本物だと、思う」

「どうして、そう思うの?」

 間髪入れずに返された質問に、言葉が詰まった。

「……温かかった、から。今も、温かい、から」

 冷えていく体をふんわり温める、優しい翼に触れた。

 そこから慈愛が溶け込んでくるような気がして、指の先の温度が少しだけ戻ってくる。

「そうかい。でもそれは、守護者さんの偽物の愛に触れた、君の安らぎの話だろう? 根拠にはならないよ。例えば、僕が君なんか大っ嫌いだ! と思いながら君を優しく抱き締めても、君はきっと、温かくなるんだろう?」

 問いかけるような言葉には確信が籠っている。

 清川は博士の思惑通り頷いたが、「でも……」と小さく否定しようとした。しかし、

「でも、なんだい? キチンとした根拠が、あるのかい?」

 と、コテンと首を傾げて問う博士に、何も返せない。

 太ももを覆うパーカーの裾を、ギュウッと握り締めて俯いた。

「言葉を返せないのなら、君も、その心は偽物だと認める、ということなのだろう?」

 子供を諭すような優しい声には、明確な敵意が入り混じっている。

 清川はギュッと目を瞑って首を振った。

 それを、博士は駄々を捏ねる子供を嘲るような冷たい瞳で見下す。

「何が、違うのさ。守護者さんは、初めから君を守る者として、誕生させられたんだろう? 守護者さんは人魚姫ではないけれど、そこは同じだよ。生まれついて使命を与えられているんだ。そうしなくちゃ生きられないと、思い込んでいたんだ。可哀想だね、押し付けられた運命を、幸せだなんて思わされてさ。まるで、洗脳や都合の良いアンドロイドじゃないか」

 声は少し大きくなって、熱が籠る。

「君の守護者さんも、皆みたいに惨い末路を辿ったのかもしれない。けれど君は、何も知らずに一方的に守られていたんだろう? 守護者さんの存在を知った今、申し訳ないとは思わなかったのかい? 守護者さんは、きっと傷ついただろうね。けれど君は、嬉しいとばかり思っていて、そんなことなんて気にしていなかったのだろう? 最低だね。ねえ、僕は、王子さまとは、話したことが無いんだ。どうしても気になってしまってね。ぜひとも、君の考えを教えてほしいんだよ」

 少し興奮しているが、博士はあくまでも問いかけとして、穏やかに言葉を吐いた。

 問いかけという体で清川を攻撃し、今も追撃を狙って清川の言葉を待っている。

 博士の話した内容は密かに清川が気にしていたことで、おまけに新しく突きつけられた残酷さも混じっていた。

 言葉が重く心臓に刺さって脳内で反響を繰り返し、ポロポロと涙が零れた。

 反論してやりたいのに、唇からは言葉ではない音がこぼれ落ちる。

 耳に入り込む嗚咽交じりの声は、まるで自分のものではないようで、他人事みたいに黒い机に水玉模様ができていく。

「博士、いい加減にしていただけませんか?」

 守護者は言葉に怒りを乗せると、ギュッと清川の肩を抱いて翼で涙を拭った。

 そうするとかえって涙は溢れ、守護者は震える小さな背中を撫でた。

 博士は、居心地が悪そうに頬を掻いている。

「藍さんの心を傷つけるって話かい? でも、僕は、マボロシ一般の話と経験談に基づいて、君と藍さんの関係について問いかけただけだ。このくらいで僕を止めようとするなんて、少々、過保護じゃないかい?」

 博士は苦笑したが、守護者は「違います」と、はっきり否定した。

「私は、藍が答えを出すべき事柄に、うるさく口を挟むつもりはありません。私が不快に思ったのは、貴方が私の心を、在り方を勝手に決めつけて、さも、真実かのように語ったことです」

 項垂れる清川の頭をポン、ポンと撫でながら、青筋の立った笑顔を博士に向けた。

 博士は深くため息をついて、ヤレヤレと首を振る。

「君が言いたいのは、藍さんを守ることが生きる道だけれど、そこに強い幸せを感じる、ということだろう? 僕は、それが作られた感情で、偽物だと言っているんだ。ああ、これじゃ堂々巡りだよ。それとも、守護者さんは、それを否定できるのかい?」

 呆れ交じりに出されたその言葉に、守護者はあっさりと、「できますよ」と笑った。

「だって、貴方たち人間も、食べることは好きでしょう? 寝ることを愛し、人と共にあることを、愛するのではないのですか? それは、人間が人間として生存するために必要な事で、生まれた時からそういう欲を持つように、運命づけられているのかもしれません。ですが、同時に、それを満たされた時に感じる幸せだって、本物なのではないですか?」

 守護者が話すのは、大抵の人間が人間である故に持っている欲求の話だ。

 人間が生存のための欲求を、同時に幸せを満たすための欲求とするのと同じように、自分も生きるために清川を守り、同時に守りきれた時、その笑顔を見ることができた時に幸せを感じると言いたいのだろう。

 その時の心は本物だと語ったのだ。

「……僕には、理解しきれないよ。論点がずれているようにも思える。それに、その言葉を此処で独りの僕に言うのかい? 食欲なんかについても、この世の全員が全員、そう思っているとは思えないけど?」

 守護者の答えを聞いて、しばらく黙りこくっていた博士が苦々しく言葉を出す。

 すると、守護者がフンと自慢げに顎をしゃくった。

「それは極論でしょう? 食事も睡眠も嫌いで、人といるのも嫌い、一つも幸せを感じられない。そんな人間が、この世にたくさんいるようには思えませんが? 少なくとも、私の知っている皆さんは、人と共にあることや、食事を楽しんでいるようでしたよ」

 守護者の頭には、友人を得て以前よりずっと明るく笑うようになった清川が、金森たちと楽しそうにカレーを食べている姿が浮かんだ。

 清川の楽しそうな姿を思い出せば、悔しげに表情を歪ませる博士を前に浮かんでいたドヤ顔も崩れ、ふんわりと優しさが浮かぶ。

『この温かい気持ちは、誰にも否定させません』

 じんわり温まる胸に翼を当てて、もう片方の翼でそっと清川を包み直すと、真直ぐに博士を見つめた。

 強い意志の宿る美しい硝子の瞳だ。

 口籠った博士は、少し俯いた後、

「そうかい。君の言いたいことはよく分かったよ。でも、僕はまだ、藍さんから答えをもらっていない」

 と、守護者に包まれて瞳を潤ませる清川を見つめた。

 清川はビクリと肩を揺らし、ボロボロと泣き続けている。

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