第42話

「ひっ、誰じゃ、誰じゃ、お主は」


 松風まつかぜ家江戸家老、大隅孝光おおすみたかみつは薄暗い部屋の中で震えていた。そばには若い女中が胸元と裾をはだけて座っている。この期に及んで楽しんでいたようだ。女中の顔は見えないが特に怯えている様子はない。

時雨しぐれ大隅孝光おおすみたかみつへ刀を向けた。


「お前が江戸家老の大隅孝光おおすみたかみつだな。阿芙蓉あふよう紅笑芙蓉こうしょうふよう、そして東雲とううん先生のこと、すべて仕組んだのは誰だ?」


 時雨しぐれの声は低く、感情を含んでいなかった。大隅孝光おおすみたかみつは女の声だと分かると安心したように話し始めた。


「あぁ、お主には関係あるまいて。外には家臣が多くいるぞ。入り口の護衛を斬っただけで調子に乗るでないわ。

誰ぞ!誰ぞある!曲者じゃぁ!」


 大隅おおすみの声は虚しく響き渡った。時雨しぐれは溜息を吐く。


「お前、状況が分かっていないのか?

ここに来るまでに私がどれだけの者を斬ってきたのか、なぜ誰も来ないのか」


 大隅おおすみは【しん】と静まりかえった廷内に耳を傾けた。

 こちらに向かってくる足音はしない。素破すっぱの者達も誰一人として駆けつけて来ない。

 大隅おおすみはやっと状況を把握したようだ。自らの横に侍らせていた女中を自分の盾にする。

 その時初めて女中の顔が見えた。目は虚ろになり、口からは唾液を垂らしている。すでに意識は遙か彼方を彷徨さまよっているようだ。時雨しぐれは女中が少しだけ哀れになった。意思を消され、身体を弄ばれ、ただの肉と化してしまった女。

 時雨しぐれの腕がほぼ真横に動いた。女中の首がゆっくりとずり落ちる。半ばまでずれたとき、突然大量の血が迸った。女中の首はころころと暗闇の中へ消えていく。

後には、血飛沫を上げる女中の身体と、その返り血を全身に浴びる大隅おおすみが残った。慌てて女中の身体を大隅おおすみが突き放す。その身体は力なく横たわった。

 時雨しぐれが一歩踏み出す。大隅おおすみはずるずると後ずさりをする。すぐに壁へと突き当たった。


「もう一度聞く、今回の件、首謀者は誰だ」


 大隅おおすみの顔色はうかがえないが、臭いが漂ってきた。粗相そそうをしたようだ。液体が女中の横たわった身体に向かい流れてゆく。時雨は大隅おおすみに刀を向けたまま、女中の身体を液体に濡れない位置へ移動させた。一瞬、大隅おおすみが動こうとしたが時雨は切っ先の動きだけでそれを制した。


「おやおや、逃げ出す気か?

まぁ、逃がさないけどねぇ」


 時雨しぐれは気がたかぶっていた。目の前に茂蔵しげぞう氷雨ひさめや、喜瀬屋きせやの者を殺した奴を知っている者がいる。東雲とううん先生や東風こちを酷い目に遭わせた奴を知っている者がいる。時雨しぐれは刀を放り投げた。そして胸元から短刀を取り出し、身を抜き出した。ゆっくりとしゃがみ込み大隅おおすみの鼻な中に切っ先を入れる。


「さぁ、話せ」


 大隅おおすみはがたがたと震えている。口を開く様子はない。時雨しぐれは切っ先を跳ね上げた。大隅おおすみの鼻先がすっぱりと斬れ血がしたたり落ちた。


「ひぃぃぃぃ」


 情けない悲鳴が暗い部屋の中で響き渡った。

大隅おおすみは鼻を押さえ、時雨しぐれからなんとか逃れようともがく。しかし、身体は動かなかった。時雨しぐれの足先は、大隅おおすみの足を踏んでいる。時雨しぐれ大隅おおすみの左腕を持ち上げ、手の平を壁に押し当てた。

 もう一度悲鳴が響く。時雨しぐれの持つ短刀たんとう大隅おおすみの手の平を壁に縫い付けていた。

 大隅おおすみはもがこうとするが身体は動かない。時雨しぐれは、そのまま短刀たんとうをもう一押しする。今度は声は上がらなかった。その代わり、大隅おおすみの身体から力が抜けた。どうやら気を失ったようだ。

 時雨しぐれはそのまま立ち上がり、大隅おおすみの衣服の中やその近くをなにやら探し始めた。大隅おおすみの近くに箱がある。中を開けると時雨しぐれが探している物が入っていた。

 時雨しぐれ大隅おおすみの頬を打ち、無理矢理意識を戻させた。大隅おおすみは痛みに震えている。その大隅おおすみの目の前に筒を持ってきた。ゆっくりと振る。中からは液体の音が響いていた。


「これ、な~んだ?」


 大隅おおすみの目が箱の位置へ移動し、蓋が開いているのを見た瞬間表情が歪んだ。

様々な表情が入り交じっている。時雨しぐれはその筒の中に針をゆっくりと差し込んでゆく。大隅おおすみはもがこうとしたが左手の痛みに耐えきれずに動きを止めた。


「よっ、よせ、止めろ。なっ、金なら、金ならいくらでも出す。

頼む止めてくれ!」


 最後は悲鳴に近かった。沈めた針をゆっくりと引き抜いていく。針の先から真っ赤な、透明な液体がしたたり落ちる。

 時雨しぐれは、液体に濡れた針を軽く一振りする。そしてその針を大隅おおすみの首筋にゆっくりと差し込んだ。


「はぁぁぁぁぁぁぁ」


 大隅おおすみの口から気の抜けた声が漏れる。それは絶望を通り越した、虚無に近い声だった。

 時雨しぐれは針を抜き暫く様子を見た。大隅の目に変化が現れる。段々と眼がとろりとなり、口元が緩んできた。

時雨しぐれはにやりと笑い、再度質問をした。


「今回の首謀者は誰だ」


ゆっくりと


「今回の首謀者は誰だ」


ゆっくりと ゆっくりと


「今回の首謀者は誰だ」


ゆっくりと ゆっくりと ゆっくりと繰り返す。


時雨しぐれの言葉に大隅おおすみの口がわずかに動いた。


「……は、なが…………ぶ……の、わた……の……あ…………だ」


もう一度…… もう一度…… もう一度……


「しゅぼ…………は……ながさ……き……ぶぎょう……わたし……あに…………」


 時雨しぐれはそこまで聞き出すと、大隅おおすみまげを掴み無理矢理持ち上げた。

 大隅おおすみの口が大きく開く。時雨しぐれは筒の中身を大隅おおすみの口の中に流し込んだ。液体はそのまま喉の奥へと流れてゆく。

 液体の入っていた箱の中から一つだけ筒を抜き出すと、それを懐にしまい込んだ。箱の位置を女中の身体の向こう側へ移動させ、大隅おおすみの手から短刀を引き抜いた。一瞬びくっと身体が震える。

大隅孝光おおすみたかみつは恍惚とした表情を浮かべていた。


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