episode2

「……お邪魔するよ。」

「あれ、珍しい。お前のスーツ姿は、何回見ても見慣れないな。まあ、いいや。そこに座れよ。」

 休日の前夜の仕事帰りに、ぼくは古くからの知り合いが営むバーに立ち寄った。男は薄暗い夜の木目に相応しい、微笑むような視線をぼくに投げた。

「お前が此処に来るってことは、明日は暇なのか?」

 男は、学生時代の笑顔をそのままに、笑った。冬が近くなった冷たさと店内の熱が溶けあった。

「顧問をやっている部活が、明日はオフでね。土日で空きが出来たんだ。だから、ちょっとだけ愚痴に付き合ってほしい。……とりあえず、テキーラサンセットを。」

「……意外とアルコール強いよな、お前。」

「弱かったら来てない。」

 人が誰もいないからか、男は仕事用の面構えを崩す。ぼくの目の前に、夕焼けのような色合いの、冷たいロングドリンクが置かれた。

「……センセイも大変そうだな。ま、今の悩みは、少し違うようにも見えるけど。」

 一言も言っていないのに、鋭い奴だ。今から話すのだから、別に構わないけれど。

 ぼくはグラスに口を付けてから、ボトルを棚に戻す男の背に口を開いた。

「仕事での小さなミスの積み重なりと、恋人の心変わりに、ちょっと。彼女のためにも、ぼくからタイミングを見計らって、振ろうと思う。」

「冷めたん?」

「……いや、好きだよ。」

 ぼくはまだ、彼女が好きだ。どちらが先に恋をして、どちらが告白をしたかなんて、今となってはどうでもいい。二人同時に、相手を愛していた時間が確かにあった。事実を語るためには、そこだけを切り取ればいい。

 ただ、彼女の心変わりに気づいた今、無為に彼女を縛るくらいなら、彼女にぼくの胸のざわめきを気づかれる前に、彼女が自分の変化した感情を理解して傷つく前に、ぼくが、ぼく自らが、悪者になってやろう。

「……それは、その女が悪いだろ。恋人としてお前を捕まえておいて、心変わりなんて。」

 男は、怒りを口にした。男にとって、それは無自覚なのだろうけれど、ぼくが殺した情を蘇らせるように、彼の怒りが、奥底に潰したぼくの黒い記憶をなぞった。

「お前は優しすぎる。どこまでも甘い。だからこそ、お前の横には誰かが居てやらなくちゃならないのに、そいつがお前の優しさに漬け込むようなら、そんな奴は隣に置いちゃいけない。」

 男は、天井の灯りを一瞥した。柔らかく温かなはずの灯りが、ぼくには鈍く、苦く見えた。

 ぼくの心を幾らか抉ったと悟ったのか、男は一つ咳払いをし、ワントーン明るい声を発した。

「逃げ出したくなったら、ここに来ればいい。他人のために、自分を殺してやるなよ。それは、誰のためにもならない。」

 男は、そう言い放った。それは、ぼくのフィルターを通しても歪められることなく、心にそのまま落ちてきた。

「……ありがとう。」

 ぼくは、男に一言呟いた。


 バーのドアが開き、客が一人入ってきた気配がした。男が、ぼくの背後に向かって「ようこそ」と、営業用の顔を作り直した。

 客は、ぼくと一つ席を空けた左に座った。自分が来ていたクリーム色のチェスターコートを脱ぎ、自分の膝に掛けた。

 客は、若い女だった。柔らかくカールした黒髪と、赤く引いたルージュが目を引く。薄く開いたアーモンドアイは、ブラウンが入っていた。

「……いつもは誰もいないのに、珍しいわね、マスター。」

「私の旧友ですよ。」

 男は、落とすようにぽつりと呟く。格好をつけているつもりなのか、動作が僅かに丁寧だ。

 女は、この店によく来ているらしい。慣れた様子で、机に頬杖をついている。

「ふーん……。」

 男は、何かを堪えられないとでもいうように、口元に手を持って行った。その不思議な動作に、女は訝しげに眉根を寄せた。

 女の髪が、机にかかる。体を動かすたびにずり落ちるコートが、いつ落下するかと気になった。

「今日も、いつも通りカカオフィズですか?」

「ええ、そうね……。」

 オーダーをしかけた女と、初めて目が合った。なにも、ぼくが彼女をずっと見ていたわけではなく、むしろ目を逸らしていたのだが、ぼくが顔を上げたタイミングと、彼女が此方を一瞥したタイミングが、同時だった。

「……いや、待って頂戴。やっぱり、今日はアプリコットフィズをお願いするわ。」

「初めてのオーダーですね。わかりました。」

 アプリコットフィズ。滑らかな琥珀色の、リキュールをベースとするロングドリンク。男は何処か楽しそうに、炭酸を注いだ。

「ねぇ、貴方……。私が誰だか、分かるかしら?」

 突然、女に聞かれた。

「……失礼ですが、どこかでお会いしたこと、ありましたか?」

 この女に、今以外の記憶はなかった。ぼくは、正直に答える。

「どうだったかしら。でも、私の記憶には、貴方がいた気がするの。でも、勘違いかも。ごめんなさいね。」

 女はふっと微笑みを零すと、男から受け取ったグラスを、水面を歪めるように回した。

 それを見てから、これ以上は男と話しが出来ないだろうと、男に金を渡して、バーを出た。

 女が、手を振ってきたのが見えた。

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