第3話 気づかないフリをしたかった現実

「向くん、どこに泊まったんだろう……。大丈夫だったのかな」 


 朝になっても向陽は帰って来なかった。

 幸せだった夢は、あっという間に悲惨な現実へと戻っていった。

 それでも彼の身を案じる自分がいる。

 

 パートに出る気力もなく、休みの連絡を入れた私は、気づいた時にはフラフラとあてもなく街中を歩いていた。

 何かをしたいわけでもない。

 体力だってあるわけでもないのに。


 どこで何を間違えてしまったのだろう。

 誰にも助けを求められないこの現状は、確かに私の行動の結果。

 でもこんなことを望んでいたわけじゃない。

 もっと普通に、ただ私は幸せになりたかった。


 頭の中は、どれだけ歩いていても考えがまとまることはなかった。


「ねーねー。今日休んだのならさぁ、駅前に出来たばっかりのカフェいこーよぉ」


 ぼーっと歩いていた私の耳に、甘い声が聞こえてきた。

 どこかで聞いたことがあるような、やや鼻にかかった特徴的な声。


 でもそれよりも幸せそうな声と会話に、ただふんわりといいなぁと聞いていた。

 彼氏にカフェをねだるだなんて、学生時代でもなかったなぁ。


 向陽は、そういうトコに行くのはすごく嫌いっていうタイプだったし。

 いいなぁ。いくつになったって。

 あんな風に好きな人に甘えて、好きなところに行けたら……。


 なんで私はこんなにも不自由で、惨めなんだろう。

 なんで私はこんなにも、上手くこなすことが出来ないんだろう。


「俺はカフェとか嫌いなんだよ、知ってるだろ」

「知ってるよぅ。でもいいじゃん。いこょー、向陽」

「ったくしょうがねーなぁ」

「ふふふ。やったぁ。大好き」

「あはははは。可愛いな、お前は」


 仲睦まじい恋人たちのやり取り。


「ねー。いつになったらあたしと結婚してくれるのよ」

「あいつまだ生きてるからなぁ」

「なにそれー」

「だってそうだろう? せっかく家政婦ポジだったのを、結婚してやったんだぞ? 最後まで貢いでもらわないと」

「あー。香織んとこお金持ちだもんね」


「それだよ、それ。なのにあいつ、勘当されたから金ないんだぜ?」

「えーじゃあ、もう捨てちゃえばいいじゃん」

「馬鹿だなぁ。遺産ってもんがあるだろ」

「やっだぁ。死ぬまで待ってるの?」

「そのうち、な」

「ひどーい男」

「でも好きだろ?」

「もちろん」


 腕を組み、嬉しそうに歩く二人を私はただ茫然と見送った。


 どうしてその二人が気になったのか。

 どうしてこんな広い街の中でその声に聞き覚えがあったのか。

 考えれば答えなど簡単だった。


 向陽と私の親友。私たち三人は、高校の時からずっと仲がよかった。

 でもなぜ彼と親友が? しかも大好き? 可愛い?

 自分の中で何かが崩れて落ちて行くような気がした。


 二人の仲が、卒業の後もいいのはずっと知っていた。

 浮気を疑ったことだって、何度もある。


 でもその度に、二人はただの友達だってはぐらかされて、私もそれを信じてしまっていた。

 違う。大丈夫だって、自分で自分に言い聞かせてきたんだ。

 見て見ぬふりさえしていれば、ただでさえ苦しい現実がこれ以上酷くなることはなかったから。


 親友と夫。最後まで残っていた大切な人たちをこんな形で一気に失くすだなんて。


「ははははは……なによ。なんなのよ……」


 私と結婚したのもお金目当てで、今は家政婦か。

 でも考えてみれば、そうね。

 タダで自分を食べさせてくれる存在以外の、何ものでもないものね。


 ははははは。


「ホント、馬鹿みたい」


 そこからどうやって家に帰って来たのか、自分でも記憶がなかった。



     ◇     ◇     ◇


「ああ、ご飯作らなきゃ」


 こんな時でもいつもと同じコトをこなそうとする自分に、自分でも腹が立つ。


「私、家政婦だもんね。掃除して、ご飯作って、アイロンかけて。家のお金は全部私のお金で……。ははははは。自腹の家政婦さんって、家政婦さんですらないじゃない」


 尽くして、貢いでいただけ。

 愛されてるって、思いたかっただけ。

 お前のためって言われたら、きっと自分のことを考えてくれているんだって。


 馬鹿みたいに思い込んでいただけなんだ。

 現実は、思っていた以上に悲惨ね。

 あああ、辛い。


「胃が痛い」


 前から胃痛はあった。

 でも病院に行くお金がなくて、いつでもそれに耐えてきた。

 そう、いつものことね。


 少しソファーで休もう。

 動けそうにないもの。

 もう怒られたっていいや。

 全部知ってしまったから。


 これからのことなんて考えたくないけど、ちゃんと向陽と話をしないといけないのね。

 そうしたら私、一人ぼっちになっちゃう。


「……キツイなぁ」


 ソファーに横になり、お腹に手を当てて目をつぶった。

 しかしいつもと違う痛みは、だんだんとお腹全体に広がっていく。


 さすがにまずいかもしれないと気づいた時には、痛みからすでに立ち上がれなくなっていた。

 

「なん、なの? 痛い痛い痛い痛い」


 一度痛みを口にすると、もう我慢の限界は超えていた。

 少し動くと、余計に痛みが全身をめぐり、吐き気が襲う。


「ううううう」


 このままじゃあ、死んじゃう。

 痛い、苦しい。


 必死にもがいていた私の目に、スマホが見えた。

 

「た、たすけを……」


 肩で息をしながら、私は必死に電話をかけた。

 履歴に一人だけ残る、彼に。

 

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