夏休みとクモ女

蟹場たらば

1 クモ女、現る

 この日、俺は大学時代からの友人である坂本さかもとの家を訪れていた。明日が日曜ということで、二人で宅飲みでもしようかという話になったのだ。


 坂本は缶ビールのフタを開けたかと思うと、すぐに中身も空けてしまう。俺と違って、この男は酒が強いのだ。


 しかし、そればかりが一気飲みの理由ではなかったらしい。


「まだまだ暑いな」


「そうだなぁ」


 もう九月も後半だった。


 その上、もう日の暮れたあとだった。


 にもかかわらず、気温は未だに高いままだったのである。さすがにクーラーこそつけていないが、窓は全開にしていたほどだった。


 汗をかくせいで、水分の次は塩分が欲しくなったのかもしれない。坂本はつまみの枝豆に手を伸ばす。


「なんか年々夏が延びてるような気がするよな」


「ああ、温暖化の影響かな」


『昔はよかった』的なおっさ……大人にありがちな思い込みということはないだろう。九月の真夏日の日数が増加したとか、北国でも猛暑日を記録するようになったとか、そんな話をニュースでもやっていたはずである。


「そのくせ夏休みは短くなって。今の子は可哀想だよなぁ」


 坂本が言うように、俺たちが子供だった頃は、夏休み最終日といえば、それはほぼ確実に八月三十一日のことを指していた。せいぜい冬休みの長い北国が例外になるという程度である。


 けれど、教員の負担を軽減させるために、一日あたりの授業時間を減らして、代わりに不足分は授業日数を増やして穴埋めしようという動きが出てきたらしい。近頃は三十一日以前が夏休み最終日という地域が増えてきているようだ。だから、坂本は「今の子は暑いなか学校に行かされて可哀想だ」と言っているのだろう。


 もっとも、それこそ『昔はよかった』的な思い込みかもしれない。俺は「今時は小学校でもクーラーあるんだからまだいいんじゃないか」と答えていた。俺たちの子供時代には、多分私立の学校くらいにしかなかったんじゃないだろうか。


 枝豆に飽きたのか、坂本は今度はサラミを口に運び始める。


「夏休みといえば、夏休みの宿題はコツコツやる派だったか? それとも最後にまとめてやる派?」


「序盤で一気に全部終わらせる派」


「あー、いたいた。そういう真面目なんだか不真面目なんだかよく分かんないやつ」


 俺の場合は心置きなく遊ぶためだったので、後者ということになるだろう。……坂本に言われるのはしゃくに障るが。


「お前はどうせ最後にまとめて派だろ」


「いや、まったくやらずに先生が諦めるのを待つ派だ」


「不真面目の極みじゃないか」


 大学時代、必修の経済学や中国語(第二外国語)以外の科目は、しょっちゅう代返やノートのコピーを頼まれたことを思い出す。あれは別に、自由の多い大学生活に浮かれていたわけではなく、単に昔からずぼらな性格をしていたというだけのことだったようだ。


「懐かしいなぁ。『やったけど家に忘れました』とか言って、誤魔化したりするんだよな」


「それ本当に忘れた子まで疑われるやつだろ」


 俺は思わず眉根を寄せる。そういうことが小五の時に実際にあったからだ。


 教師に信じてもらえない上に、クラスメイトにからかわれたせいで、その子は堪忍袋の緒が切れたらしい。最終的に、「じゃあ、家まで取りにきてください」と逆ギレをかましたのである。


 ……という話をしようと、俺は考えた。


 しかし、その前から、坂本は忍び笑いを漏らしていたのだった。


「なんだよ、いったい?」


 まさかさっきの「本当に忘れた子」というのが、俺のことだと早くも察したのだろうか。


 ただ坂本の笑みに、他人をからかうようなところはなかった。


 むしろ、照れたような、はにかんだような、そういう笑みだった。


「いや、夏休みといえば、昔ちょっとな」


「だからなんだよ?」


 ようやく笑いが収まってきたらしい。俺の催促に対して、坂本はやっと答えてくれた。


「小五の夏休みにな、俺はクモ女に出会ったんだよ」



          ◇◇◇



 前にも話したかもしれないけど、俺の地元は結構な田舎でさ。周りを自然に囲まれてるせいか、子供の頃の俺は生き物が好きで。


 魚や動物、恐竜なんかも好きだったけど、一番身近だからかな。虫が一番好きだった。今じゃあ全然触れないけどな。


 そうだなぁ、春にはハナムグリで花をいっぱいにしたり、冬にはミノムシの蓑を剥がしたり…… 絶滅しそうだって? 昔はそんな話なかったんだよ。


 でも、虫といえば、やっぱり夏だよな。オオムラサキだの、タマムシだの、オニヤンマだの、クワガタだの。地元だとノコギリクワガタとミヤマクワガタがよく取れて、ガキ連中の間じゃあ、どっちがカッコいいかでちょくちょく論争になってたな。


 俺? 俺は断然カブトムシ派だったよ。だって、体がごつくて、いかにも強そうだろ? 実際、今だと虐待とか言われるのかもしれないけど、俺たちは虫相撲をよくやっててさ、その時も体感じゃあカブトムシの方が強かったからな。


 で、その夏も――小五の夏休みの時も、俺は当然のように昆虫採集に勤しんでいた。そうそう、宿題をほっぽりだしてな。


 毎日の日課で、俺は昼飯を食べたあと、すぐに近所の公園に向かった。カブトムシを取るなら山の方がいいんだが、そっちは朝見に行くから、昼は場所を変えるようにしてたんだ。あとは、みんながみんな俺ほど虫取りに熱心なわけじゃないから、山よりも公園の方が友達に会える可能性が高いっていう考えもあった。


 でも、その日、公園に来たのは友達じゃなかった。


 若い女の人だったんだよ。


「ねえ、キミ」


 そのお姉さんはそう声を掛けてきた。


 知らない人だったから、俺は思わず周囲を見回したよ。でも、他に誰もいなくて。それで半信半疑で自分を指差したんだ。


「そう、キミ、キミ」


 俺が困ってるのがおかしかったんだろうな。お姉さんはくすくす笑ってたよ。


 でも、俺が困るのはある意味当然だったんだ。田舎の小さな町で、子供も大人もみんな顔見知りみたいなもののはずなのに、そのお姉さんには全然見覚えがなかったんだからな。


 それに、「キミ」って呼んだってことは、向こうも俺のことを知らないってことだろ? だから、初対面の子供にいったい何の用があるんだろうと思って。


 そんな風に戸惑う俺に、お姉さんは尋ねてきた。


「よかったら、それくれない?」


 お姉さんが指差したのは、俺が持ってる虫かごだった。


「これひとつしかないので……」


「違う、違う」


 緊張してる俺をなごませようと思ったのか、それとも単に俺の勘違いが面白かったのかな。お姉さんは笑うばかりだった。


 それから、虫かごをつついてこう続けたんだ。


「中身の方だよ」


 これにはびっくりしたなぁ。だって、取った虫を見せたりすると、親父は苦笑いするし、お袋に至って嫌な顔をするからな。例外だったのは、じーさんくらいか。だから、てっきり大人は虫が嫌いなもんだと思ってたんだ。


 でも、虫好きって分かったことで、俺はむしろお姉さんに親近感を持ち始めていた。それで、どうせ逃がすつもりだったこともあって、虫を譲ることにしたんだ。


「どうぞ」


「ありがと」


 俺が虫を渡すと、お姉さんはそれをそのまま素手で受け取った。大人が――それも美人が虫を手づかみするなんて思わなかったから、俺はまたびっくりしたよ。


 だから、虫を持って立ち去るお姉さんの後ろ姿を、俺は見えなくなるまでずっと見ていたんだ。

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