「恋……?」

 その単語は、あまりにも俺から遠いものに聞こえた。頭がぼんやりするくらい。これまで俺は、恋なんてしたことがないはずだ。恋より先にセックスを覚えてしまったからかもしれない、と思った。

 ぼんやりする俺に、清水さんは確かに微笑みかけてくれた。

 「分からない? さっきあなたが言ったこと、あれって、つまり恋だと思うわよ。」

 恋。

 たとえ俺がなつめに向けている感情が恋だとして、俺はどうしたらいいのだ。恋より先にセックスを覚えた俺は。恋するより先に、なつめを抱いた俺は。

 はじめてなつめを抱いた夏を思い出した。

 赤い色が瞼の裏でくるくる回った中二の夏。

 あれは、性欲だった。今ならはっきり言える。あれは、ただの性欲だった。

 それがどこでどう変化して、恋情になったというのだろうか。

 分からなかった。さっぱり。

 だから俺は、縋るように清水さんを呼んでいた。

 「分からないよ。全然分からない。……恋ってなに? 俺には、そんなの分からない。」

 すると清水さんは、笑ったままの唇で言った。

 「今すぐ幼馴染に電話するなり会いに行くなりするべきね。……話さないといけないわ。あなた、ひとと話すことを避けてる。無意識なのかもしれないけど、とにかく誰とも話そうとしないわ。少なくとも今は、それじゃ駄目でしょう。」

 ひとと話すことを避けている自覚はあった。俺は両親とさえほとんど話さないで育ったから、そもそも話して人と分かりあえるとも思っていなかった。でも、その自分の思考のくせみたいなものが、まさかなつめにまで及んでいるとは思っていなかった。だって、なつめは、なつめだけは、いつだって俺と話そうとしてくれていたのに。

 「……電話、ここでさせてくれる?」

 我ながら泣きたくなるほど情けない台詞が口からこぼれ出た。

 「一人になったら、俺は、逃げて電話なんかしないんだ。逃げて……逃げて、なつめが俺から離れて行くのにも、気が付かないふりをすると思う。」

 ごく短い沈黙の後、清水さんは、いいわよ、と言った。

 俺は、ありがとう、とだけ言って、ポケットに押し込んでいたスマホを取りだした。

 手が、震えていた。目で見て分かるくらい、はっきりと。

 拒絶が怖かった。なつめに拒絶されたとしたら、俺は本当の一人だ。友人も、恋人も、持ったことはなかったし、両親でさえなつめの両親を自分の親より慕ってきた。そんな相手に拒絶されたらと思うと、怖すぎた。

 清水さんは、俺をせかしたりはしなかった。その代り、テーブルの向こう側から手を伸ばして、俺の手を両手で包んでくれた。

 「……私、あなたのこと、好きだったわ。」

 清水さんの低い囁きに、俺はなにも答えられなかった。完全な過去形で示された、彼女の好意に。

 ただ、彼女の言葉を聞いたら、手の震えは止まった。ぴたりと。

 彼女は声を出さずに笑い、俺から手を離した。

 

 


 

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