デイリースパイス

糸森 なお

第1章 デイリースパイス

第1話  不眠症

 待ち合わせのカフェがあるのは、駅の地下通路の奥だった。


 きれいな板張りの床に、落ち着いた色のレンガの壁。地下なのに木があって、その上の天窓から陽光が差している。最近できた通路だ。


 この巨大なターミナル駅は、いつ来てもずっとどこか工事をしている。

 昔、誰かが描いた壮麗な地図に少しずつでも近づいているのか、それとも行き当たりばったりにつぎはぎをして、もう訳が分からなくなっているのか、どちらなんだろうとここに来るたびに考える。


 爪先が痛い。細身のパンプスに慣れていないのだ。

 白いつややかなエナメルで、爪先に銀のビーズの飾りがついている。この綺麗で華奢な靴を買った時、店員は、最初はきつくてもそのうちに馴染むと言ったけれど、まだ痛い。


 私はこの靴を、婚活のために買った。

 恐る恐るマッチングアプリを始めてから、一ヶ月が過ぎた。今まで二人の男性と会ったが、残念ながら縁がなかったようで、次も会うことはなかった。

 今日会う人がいい人でなおかつ私に好意を持ってくれればいいが、まあ、冷静に考えて、そんなに都合よくいかないだろう。


 それでも私は恋人をつくらねばならない。それも、可及的速やかに。

 なぜならそれは、私の命に関わっているからだ。


***


 そもそもの発端は、眠れなくなったことだった。


 三ヶ月ほど前から、突然、睡眠に問題を抱えるようになった。

 それまではずっと、いつでもどこでも眠れた。

 忙しい部署にいた時は、残業で疲れて帰ってきて、そのまま居間の床で寝てしまうことも多く、


「死体かと思うからやめて」


と家族からは迷惑がられていた。


 旅行先や移動中でも関係なく眠れた。子どもの時に所属していたガールスカウトで鍛えられたのかもしれない。繊細で、枕が変わったら眠れなくなる友達からはうらやましがられていた。


 寝つきが悪くなったのは突然だった。ベッドに入っても、いつまでも眠れない。ようやく眠れても、すぐに目が覚めてしまう。一晩で二回は必ず、ひどい時は三回も起きる。もしくは、深夜に目が覚めた後、朝まで眠れない。


 最初は時々だったのが、次第に頻度が増えて、やがて毎晩になった。


  翌日は頭が痛いし、食欲もない。ぼんやりしてしまって、仕事でミスをする。睡眠時間が足りない日が続くとさすがに体が悲鳴を上げるのか、時折、合計で六時間ほど眠れる夜があり、それで何とか生きている、という感じだった。

 好物だったエスニック料理も、胃が受けつけず、食べられなくなってしまった。


 家族は心配し、薦められて睡眠外来のある心療内科に行った。睡眠導入剤を処方されたが、これが笑っちゃうくらいに効かなかった。いくつかの種類を試してみたが結果は変わらない。

 医者はベテランの貫禄がある白髪のおじいさんだったのだが、


「この薬が全然効かないなんて、人間にはありえない。大型の獣とかならまだしも」


と首をひねっていた。


「そんな、人をウルトラ怪獣みたいに言わないでくださいよ」


草野くさのさん、面白いこと言うねえ」


 おじいさん先生は目を細めて愉快そうに笑った。


 よほどの強い精神的なストレスがあるのではと、色々と質問された。

 しかし、思い当たるふしが全くない。


 実家暮らしで両親と妹一人がいるが、家族仲は良いと思う。少なくとも居心地の悪さは全く感じていない。


 職場も、今の部署は残業がほぼなく、セクハラやパワハラをする上司もいない。課長は物腰柔らかな、俳句を愛する男性で、大きな声を上げて部下を叱責しろと言われたら、反対に自分が卒倒してしまいそうだ。

 会社としては本業ではない業務を担当していて、きついノルマがあるわけではない。同僚に問題がある人もいない。

 課長が飾る季節の花がデスクを彩り、同僚の一人が持ち込んだバランスボールで仕事をするのが流行っている。


 同期にはあきれた顔で、


「草野の課は、高校の部室感がある」


と言われた。そろそろ、どこかから怒られると思う。


 家庭でも仕事でもないなら、ほかの人間関係、恋愛などで悩みがあるのではないかとおじいさん先生はやんわりと聞いてきた。立ち入った質問になるので遠慮したのだろう。 


「彼氏は長いこといませんが、別に悩んでません」


「でも、あなたの年じゃ、お友達は結婚する人が多いでしょう。二十九歳でしょ?」


「確かに周りは結婚ラッシュですけど……」


「じゃああせるよねえ」


「でも私、そもそもラッシュって苦手で。急行より鈍行の方が好きです。ローカル線の旅行に行きたいなあ」


「何の話? 結婚願望とか、子どもが欲しいとかもないの?」


「家族がいても、結局、死ぬ時は一人じゃないですか」


 先生は真顔になると不思議そうに眉をよせた。


「無理してない?」


「してませんけど」


「長いこと臨床しているけど、あなたみたいなタイプで、こんなに症状重いのは珍しいなあ。真面目で責任感が強い人がストレスってためやすいんだけど。あなた、図太くて丈夫そうだし」


「先生、ちょっと。失礼じゃないですか」


 先程の遠慮はどこにいってしまったのか。


 先生が薦めるので、ジムで運動も始めてみた。しかし、体が疲れても眠れないのは変わらず、むしろ疲れているのに一向に眠れないので逆に辛かった。


 ほかの病院に変えてみても、出される薬は同じだったので、結局、おじいさん先生のところに戻った。

 先生とは仲良くなり、愚痴を言う孫とそれを聞く祖父のような関係ができた。


 しかし症状は一向に改善せず、斜めになって泳ぐ死にかけの魚のような日々を送っていた。


***


 ふらふらになりながらも出勤はする私を心配したのは、後輩の綾菜あやなちゃんだった。

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