シスター!

冬野 暉

本編

プロローグ

彼女たちの事情〈1〉

 ディッセルヘルム公国でグリーンヒル伯爵家の令嬢を知らぬ者はいない。

 現当主の伯爵には四人の娘がいる。いずれも美姫と名高い伯爵夫人の血を色濃く受け継ぎ、社交界の薔薇と称えられる見目麗しい淑女である。

 特に長女のマリアーヌは、とある貴族が催した仮面舞踏会にお忍びで参加されていた大公殿下とそうとは知らずに恋に落ち、のちに大公妃として見初められるというおとぎ話のような逸話で有名だ。

 次女のイリシャは〈ファルスの霜剣〉と謳われる騎士の名家・エンデル伯爵家に嫁ぎ、三女のヴィアンカは宰相の孫で国立大学の教授を務める若き博士との婚約が決まっている。伯爵家の繁栄を謳うような縁談をだれもが羨み、そして人びとの関心は、ひとり残った末娘をいったいいずこの貴公子が射止めるのかということだった。

 四女のフレデリケは十五歳。まさに今、咲き初めようとする黄薔薇のごとき少女であった。

 薄緑がかった金の巻き毛に縁取られた頬は白く、彼女がそっと微笑むたびに薔薇色に色づいた。伏し目がちな双眸は不思議な金の光沢を湛え、潤むようなまなざしは見る者すべての心をとろけさせる。

 桃色のくちびるから小鳥がさえずるような声が紡がれるたび、微かな息遣いすら聞き逃すまいとだれもが耳を澄ませた。清楚なドレスに隠された華奢な肢体、その甘い柔肌をどれほどの男たちが夜の夢に見たことだろう。

 高嶺の花といえど未だ手折られることなく、悩ましげに匂うはだれも知らぬ蜜の香り――この甘美な事実は公国じゅうの若者を熱狂させ、伯爵家の屋敷には恋文と贈りものが山のように届けられた。

 求婚者には貴族の子弟ばかりでなく、大商人の跡取り、地方の有力者の子息、はては国外からも我こそはと名乗りを上げる者もいた。幸運の花婿に選ばれる殿方はさていかにと、公都ブランシェリウムの下町では賭事が流行る始末だった。

 やんごとなき殿上人から市井の民草まで、国じゅうの人びとが注目するなか――事件は起きた。

 とある男爵の三男坊がフレデリケに恋い焦がれるあまり、夜這いをかけたのである。

 文明開かれきらぬ近代において、女性の貞節、とかく未婚の乙女の純潔は重要視された。たとえ一方的な暴力の末であったとしても、ひとたび肌を許してしまえば女性側の落ち度とされた。

 淫売の烙印から逃れ、女の名誉を守る手段はただひとつ。それは、清らかな花を散らした男との結婚だった。

 婚前であっても夫となる者との交わりであれば罪にはならない。つまり既成事実を作ってしまえば、どんな身分の男でも意中の娘を手にすることができたのである。

 貴族とは名ばかりの家柄に生まれ、家督すら継げぬ冷飯食いに残された、暴挙に等しい手段だった。しかし恋情に狂った若者を止められるものがあるはずもなく、彼は一世一代の大勝負に挑んだ。

 結果を述べれば、彼の失敗に終わった。

 募る想いのあまり、末娘に不埒な真似をしでかす不届き者の出現を伯爵夫妻は危ぶんでいた。次女の嫁ぎ先であるエンデル伯爵家に依頼し、警護の騎士たちを早々に借り受けていたのである。

 夜陰に乗じて屋敷に忍びこむことには成功したものの、フレデリケの寝所に近づくことすら叶わぬうちに発見され、あえなく捕縛された。

 この出来事は瞬く間に公都を席巻し、人びとを驚かせた。

 フレデリケの無事を喜びつつ、しかし不憫な若者に同情を寄せる者も少なくはなかった。罪深きはその美しさ。嗚呼、あなたはなんと無慈悲なのだろう――などという揶揄めいた恋歌が城下に流れ、いつまでも答えを出さぬフレデリケに苛立ちの声が上がりはじめていた。

 そのひと月後、再びブランシェリウムの都に衝撃が走る。

 ――フレデリケが修道院に駆けこんだというではないか!

 女性が修道院に入るとは、髪を切り、神の花嫁たる修道女になることに他ならない。つまり彼女はすべての求婚を突っぱね、生涯未婚であることを宣言したのである。

 これには求婚者ばかりでなく、フレデリケの両親や姉たちも多いに困惑した。

 フレデリケが立てこもる修道院に通い詰め、なんとか説得を試みるものの、彼女はうんともすんとも口を開かない。修道院側も簡単に受け容れるわけにもいかず、艶やかな金翠の髪はそのままであったが、それもまた時間の問題だった。

 このままフレデリケは触れてはならぬ禁断の花になってしまうのか。彼女に想いを寄せる男たちは悲嘆に暮れ、人びとは美しすぎた令嬢の悲劇に心を痛めた。


 そして、更にひと月の時が流れる。

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