雷な鳴りそね 〜億野麻呂の優雅な生活〜

加須 千花

第一話  けして二人ともと思っていたわけでは……。

 伊香保嶺いかほねに  かみりそね


 には  ゆゑはなけども


 らによりてぞ




 伊香保祢尓いかほねに  可未奈那里曽祢かみななりそね

 和我倍尓波わがへには  由恵波奈家杼母ゆゑはなけども

 兒良尓与里弖曽こらによりてぞ





 伊香保いかほ山嶺さんれいに、かみなりよ鳴らないでおくれ。

 オレなら平気だが、愛しい子を怖がらせない為に。





    万葉集  作者未詳





      *   *   *





 億野麻呂おのまろは、を四回、泣かせた事がある。


 一回目は、正確に言えば、まだ妻になる前。

 池田君いけだのきみの阿耶売あやめに正式な婚姻の申込みをしに、池田君いけだのきみの屋敷へ両親と訪問した時だ。


 億野麻呂は十八歳。

 まだ阿耶売あやめは十五歳。

 十六歳になったら、婚姻したい、と、申し込んだ。

 池田君の両親に挟まれた阿耶売あやめは、きりっとした麗しい顔で、嬉しそうに微笑んでくれたが、背後の几帳きちょう(布の衝立ついたて)の後ろを、ちらちらと気にしていた。


「いや!」


 突然、おみなの大きな声が響いた。

 几帳きちょうの後ろから、阿耶売あやめ同母妹いろもである之伎美しきみが、叫び、可愛い顔を歪めて飛び出してきたのである。


億野麻呂おのまろさま……。あたしも、恋うています。あたしも選んで。お姉さまだけのものになってしまわないで!」


 そう言って、之伎美しきみは大声で、わあああ、と泣き出した。


之伎美しきみ!」


 慌てた様子の池田君いけだのきみの両親より早く、阿耶売あやめが倚子を立ち、之伎美しきみに向かって走り、しっかりと同母妹いろもを抱きしめた。


「泣かないで、之伎美しきみ……。

 億野麻呂おのまろさま、あたしと之伎美しきみは二人とも、億野麻呂さまをお慕い申し上げています。億野麻呂さまが、あんまり素敵なせいですわ。」

「ええっ!」


 億野麻呂も驚いたし、それぞれの両親も驚いたし、近くに控えたはたらも息を呑んだ気配がした。


「あの……、気持ちは嬉しいけど……。」


 正直、阿耶売あやめはきりっとした強さが魅力で、之伎美しきみは優しげな可愛らしさが魅力で、二人とも姉妹だけあって、顔がすこぶる億野麻呂の好みである。好みど真ん中である。

 そんななか、年齢が上の阿耶売あやめを選んだだけであり、こう言われてしまうと、億野麻呂はおおいに困ってしまう。


 どっち? どっちを選べば良いの??


「……すまない、オレは選べない。」


 おのことして情けない、とがっくりしながら億野麻呂が言うと、阿耶売あやめが首をふって、同母妹いろもの頭に愛おしそうに顔をすりつけながら、


「選ぶ必要はございません。二人ともまるごと愛してくださいませ。」

「えええ───!」



 その後は、本当にそれで良いのか、考え直せ、と向こうの両親が説得を試み、こちらの両親は成り行きを見守った。

 之伎美しきみはしくしく泣き続け、阿耶売あやめ同母妹いろもを抱きしめながら、がんとして譲らず、


之伎美しきみが十六歳になるのを待って、一緒に億野麻呂さまの妻になりとう存じます。

 婚姻は、あと二年、お待ちください。之伎美しきみを一人にしたくないのです。どうか伏してお願い申し上げます。」


 とまでハッキリと言ったので、池田君いけだのきみの母刀自は卒倒しそうになっていた。


 億野麻呂はふっと笑った。


 億野麻呂は、潤んだ大きな瞳、女らしい優美な顔立ちが好みである。

 この姉妹は二人とも、そうである。


 そして、中身は愛情の濃いおみなが好みである。

 濃ければ濃いほど良い。

 億野麻呂は、愛情を尽くし合う両親を見て育ち、自分も、親を愛し、同母妹いろもを慈しんできた。


 姉を信頼し、頼る之伎美しきみの姿と、同母妹いろもを守ろうとする阿耶売あやめの姿は、尊く、好ましい。

 ここまで言うのだ。

 二人の好きにさせてやれば良いではないか。


「いいですよ。常敷とこしへに一生を共に過ごすのです。どうして二年待てないことがありましょう。

 嫁入りの持参の品は、最低限で結構です。こちらからは、しっかりお二人ぶん、金二十両をお納めしましょう。

 良いですよね? 父上?」


 父上はくりっとした目で人懐こく微笑み、頷いてくれた。

 池田君いけだのきみの家に相当甘い申し出である。


「ワーホーイ!」


 破格の条件に、向こうの両親がそろって、お茶目がすぎる声をあげた。

 息ぴったり。やっぱり、向こうの両親も仲良しなんだね、と億野麻呂はおかしくなってしまう。

 阿耶売あやめがホッとしたように、


「ありがとうございます。では、二人とも、妻としてくださるのですね……。」


 と言い、之伎美しきみは涙でキラキラ光る目で、


「我儘を言い、お許しください。でも、でも、あたし、本当に恋うているんです……。」


 と姉に抱かれながら、身体を小さくして震えるので、億野麻呂はニッコリ笑いかけた。


「嬉しいよ。ちゃんと待ってるから、健康に気をつけて過ごしなさい。」


 そう言うと、之伎美しきみは真っ赤になり、やっと泣き止んだ。

 浮かべた笑顔は、この世のものとも思えないくらい、可愛かった。

 阿耶売あやめも、


「億野麻呂さま、あたし達姉妹、深く感謝申し上げます。やっぱり、億野麻呂さまで良かった。

 心より、恋い慕っておりますわ。」


 そう言って、光がにじむような眩しい笑顔を浮かべてくれた。

 億野麻呂は、そのまっすぐ向けられた感謝の気持ちに、胸がポワっと温かくなった。

 良い事をした。うんうん。


 それまで無言でニコニコしていた億野麻呂の母刀自が、笑顔を深くしながら、


「億野麻呂、良いおのこになったわね。これは大変なことになりました。覚悟してるわね?」


 と億野麻呂に言った。

 それを聞いて、やっと億野麻呂にも実感がわいてきた。


(姉妹で妻ってどういうこと───?!)


 阿耶売あやめが上目遣いで、


「ぜひとも、屋敷は、姉妹で一緒に住まわせてください。」


 と澄まして言う。億野麻呂は、なんだか、頭から血の気がさあーっと引いた気がした。


「一緒……? 妻二人が、一緒の屋敷に住むなんて、聞いたことがないですが……。」


 妻二人と自分、三人で住むの?

 え……? どういう事?

 何がどうなるの?


「あたし達、今まで支え合ってきたんです。一緒に暮らしているのが幸せなんです。」


 遠慮がちに、でもハッキリと阿耶売あやめが言う。

 億野麻呂が返す言葉が見つからず、無言になってると、億野麻呂の母刀自が口を挟んだ。


「ほほほ……。良いでしょう。良い広さの屋敷を見繕いますわ。二年あるんですもの。何も心配なさらず、二人で嫁いできてくださいな。」


 そうして、あっという間に、その縁談をまとめてしまった。

 池田君の両親も、阿耶売あやめ之伎美しきみも、とにかく安心した顔を見せていたのが、印象的であった。


 縁談がこんな結果になろうとは。

 一人、妻に下さい、と申込みにいったら、二人、妻にする事になって、帰ることになった。


 なんだか、ふわふわ、地に足がつかない気持ちで、十八歳の億野麻呂おのまろは池田君の屋敷を両親とともに辞したのだった。


 帰り道、母刀自は、


「顔を見ればわかります。あの姉妹は、本気で億野麻呂を恋うてくれています。大事なのはそこ。そこだけよ、億野麻呂。……今日から心がけて、体力をつけておくことね。ほほほ……。」


 と上品に笑った。








↓挿し絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330665872024217



 

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