第一章10 魔獣の宴


 ・・一歩、また一歩と、重い足取りを維持したまま、ラルズは足音を殺すことに全ての意識を集中し、室内の入口へと向かって行く。


 慎重を超えて鈍行。絶えず動き続ける世界の流れの中、ラルズはあえて世界に遅れて流れを辿っていく。一秒の感覚が倍に感じ、時の感覚が時間経過に比例して齟齬を引き起こす。


「――ふぅ……ぅ」


 たったの数歩。木箱から外へ出て、部屋の入口に到達するだけで、ラルズの心臓は己の緩慢で鈍重な意識とは逆に、世界を刻む秒針の動きよりも鼓動を早める。


 熱くも無いのに汗が浮かぶ。寒くも無いのに手先の感覚が薄れていく。熱いのか寒いのか、自身の健康状態すらも路頭に迷い込み、抜け出す術も編み出せずに、熱さと寒さの板挟みに苦しめられる。


「大丈夫……大丈夫っ――……」


 自己暗示という名の安い頼り綱。それすらも、今のラルズにとっては道標とも言える救いの糸。心の中に生成される炎と氷の迷宮を彷徨いながらも、ゆっくりと扉の傍に壁を預ける。


 たった数歩。まだ序盤も序盤で、比較的安全な領域。ほとんど初期位置と変わらない場所に届くことすら四苦八苦し、まるで一つの大きな仕事をやり遂げたような感慨に取り込まれる。


「大丈夫、大丈夫っ――」


 耳に意識を集中する。雨音と雷鳴と暴風。三種の轟音に邪魔されながらも、廊下の先に魔獣の存在がいるかを、仮定の調べとして耳を使役。


――……聞こえる。何をしているのかは深くまではわからない。でも、音の震源地は廊下の向こう側に違いない……。


 廊下の先から音が聞こえるが、廊下よりも奥地。恐らくだが、正体が掴めない音の発生地点は、リビング方面とラルズは断定する。


 続いて目。身体を出す前に、光に照らされて発生する影の有無を確認する。が、こちらは室内に向かう途中で確認もしており、影がラルズ側に伸びている心配はなかった。


 耳と目。音と影に注力し、ラルズは身体を曝け出して更に深く情報を取得することを是とする。

 壁に預けた背中越し、ゆっくりと物音を立てないように動く。まるで依頼を受けて標的を殺そうと企む暗殺者のように、細心の注意を保ち続けながら音に溶け込み、自らの存在を中和する。


「――っ……」


 唾を一度深く飲み込んでから、徐々に左半身を廊下へとずらしていく。


 広がる視界の先、ラルズが真っ先に気付いた事柄は二つ。


 一つは最終到達点でもある玄関口。その扉が、外から力を加えられて見事にぶち壊されていた。ラルズたちが閉じ込められていた監禁部屋を破壊したような有様と瓜二つとなっており、あの大型の狼魔獣が破壊したのだろう。


 初めに異変を感じた、何かを壊したような音の正体がこれだろう。扉は介しておらず、外からも中からも丸見えとなっている。


「外は……夜みたいだ」


 曇っているからあれだが、夜という認識で間違いない。悪天候の影響もあってか、普段の夜よりも更に暗い印象だ。が、それよりも――、


「あの血は、きっと……っ」


 もう一つの注意を引く代物。それは、リビング方面から飛び散り、悲惨具合が窺える大量の鮮血。ラルズ自身がこれまで流してきた血の量に比べれば、可愛いという見当違いな表現が及ぶかもしれない。しかし――、


 七歳という子供も子供の年齢。その年齢において、誰よりも血を流し続けてきたという不名誉な自負を抱いているラルズだからこそ、確信を持って言えることがある。


 血の状態を深く確認する必要もなく、一目見て確信した真実。あの血を流した人物は、既にこの世から旅立ってしまっていること。つまり――、


「ラッセルは、もう……」


 血の持ち主。そんなもの、あれこれ考えを張り巡らせる必要もない。ラルズ、シェーレ、レルの三名の他に、この森で――現在この家で過ごしていた人物など、家族以外にたった一人だけなのだ。


 ――別に、あいつがどうなろうと、憐れんだりも悲しんだりもしない。なのに、


「・・忘れよう」


 首を振り、奥底から湧き上がる不思議な感慨にストップをかける。


 やるべきことを己に再認識させる。他の要素に気を取られている場合ではないと、ラルズは割り切るように静かに行動を開始。


 半身だけ曝け出していた身体を素早く動かし、廊下の壁沿いに背中を預ける。


 これで身体全体が廊下の全面に晒され、魔獣がリビングから少しでも顔を出せば、ラルズの存在を確認できる状態に。


 同じ空気感に囚われつつも、身を隠すことができないという状況下が、より一層ラルズの全身を蝕んでいく。水底に沈められたような息苦しさを覚えながらも、すり足気味に足を前に出していく。


「――……」


 沈黙。耳に入るのは、天然合唱団の悪天候組と、リビングで続く、得体の知れない音を放ち続ける魔獣楽団。二つの音楽舞台が奏でる音色は、ラルズが行動する上では味方と化している。


 多少の小さな音も、大きな音にそのまま飲み込まれる。バレる可能性を少しでも下げてくれていることに関しては、自然と感謝が募る。


「――……っ」


 ゆっくりと、静かに、注意は依然として最高潮に引き上げられ、最大限の警戒を保ち続ける。些細な変化すらも見落とさず、五感の全てをフル活用する。

 瞬きの回数も限界まで短縮し、瞳の渇きを無視してラルズは目的の場所を目指して前進していく。


 一匹でも魔獣がこちらに姿を見せれば、終わり――。


 今正に、正面に広がる血の写しの傍から魔獣が出てきても不思議ではない。


 ラルズがどれだけ意識し、ミスを皆無に近付けようと、静かに努める努力を行っても、魔獣がそこからひょっこりと出てくるだけで、諸々の全てが水の泡と化す。


 ・・ラルズが廊下を進んでから、約数十分。いや、正確には数分の時間だろう。体感時間が狂ってしまっている現在において、時間の物差しなど正確に測れない。


 それでも――、


「・・・・つ、いた……っ」


 中間地点。今回の偵察の最終到達点。そこへ、ラルズは魔獣に気付かれることなく、辿り着くことに成功した。


 緊張感がほんの僅かだけ弛緩し、達成感にラルズは力ない握り拳を作る。


 振り返れば大したことない距離。だがそれでも、人生で一番長く感じられた短い直線。これを後、最低でも二回繰り返さなければならないと考えると、突破する関門の数が多くて頭を抱えてしまう。


 が、何はともあれここまでは順調。目論見通り、ラルズは第一のゴール地点に到達することができた。


「・・この音、は……」


 達成感を感じつつも、ラルズは長居は危険だと判断して次の行動に移す。耳を澄まして見れば、距離の問題と悪天候の関係で掠れ気味だった音が、鮮明に耳に入り込んできた。


 クチャクチャと、何かを咀嚼する音が続く。獣の声も混じり、音の汚さは不協和音となってラルズの耳に届く。


「――っ」


 音の正体は、何となく察しがついていた。


 だけど、気付いていない振りを続け、無視してもいた。


 見たくない光景が、リビングに広がっているのだろうと、ラルズは顔をしかめた。それでも、


「・・・・・・」


 声を押し殺し、件の音の正体が何なのか、確実に把握するために肉体に命令を下す。背中を壁に預け、右目だけでリビングを覗くと、そこに広がっていたのは――、


 ・・・・・・。


 ――やっぱり、死体だ……。



 ラッセルの死体。それは、見るも無残な姿と化していた。


 頭に負った傷が致命傷だろう。頭はかち割られ、脳みそが肉体から外へ。その脳みそも、先程目にした大型の魔獣と酷似した外見を持つ小型種が喰い漁っていた。


 右足や右腕、纏めて四肢と呼ばれている部分にもそれぞれ魔獣たちが群がっており、牙と爪が死体を弄んで肉を抉られ続けている。内臓が剥き出しとなり、その内蔵も、飛び出した脳と同じように魔獣の腹の中へ。


 全身、余すことなく獰猛な魔獣に弄ばれている。皮も、骨も、身体を構成する全ての代物が喰い尽くされ、最後にはきっと、人としての姿も残らない。


「――……」


 言葉を、失った。それは単に、目の前で酷い有様となっているラッセルを視界に収めたからではない。


 見ていて気持ちの良いものではない。吐き気が込み上げ、何も入っていない胃の中がぐちゃぐちゃに掻き乱され、酷い気分に染め上げられていく。

 こんな残虐な光景を目にして、気分が悪いくならないという人の方が少ないだろう。ラルズも、正に最悪な気分だ。


 ただ――、


「・・本当に、死んだんだ……」


 先程忘れた代物がぶり返される。ラッセルの死に、可哀そうだとか不憫だとか、そんな感慨はまるで浮かばない。行ってきた悪行が悪行だからだ。


 自業自得。因果応報。そんな言葉の数々が、ラッセルの顛末を表している。命を玩具として見定め、道徳心もどこかへ捨ててきた異常者。際限なく、己が満足するそのときまで、玩具が死ぬまで戯れ、愉しみ続けてきた狂人。


 憎むべき相手なのに、死んで当然な奴なのに――、


 ――怒りも、恨みも、何も湧かない……っ。


 同情など、欠片も抱かない。ラッセルに刻まれた傷の数々は、一生残り続ける。傷跡という形を無くなっても、魂に刻まれた傷は、決して消えてくれない。だけど、


 ――死という概念に、ラルズが蓄えていた負の感情が、一緒にこの世から連れられたような感覚。


「・・もう、いいんだ」


 終わったのだ。ラッセルという一人の人間の命は終焉を迎えた。同時に、ラルズの胸中に蠢いていた代物は空っぽとなった。


 終わり良ければ全て良し。そんな、都合の良い言葉を体現しているんじゃない。それでも、


 全て終わった。その実感が、ラルズの全てを満たした。無秩序に覆われて、空虚な世界がラルズの心を支配する。黒い感情も、白い心情も、全部混ざり合う。


 残るものは、何も――。


「――ッ……」


「・・・・・・」


 魔獣の食事の音が、ラルズの心に伝播する。


 虚無となった心に炎を灯し、やるべきことをやれと己の心を叩く。死に感慨を覚えても、及ばせる時間ではない。


 冷静に、ラルズは気付かれないよう魔獣たちの晩餐に視線を飛ばす。ラルズたちの耳に入っており、一心不乱に魔獣たちが意識を向けていた代物。


 夢中になっていたのはつまるところ、ラッセルという名の死体。


 死肉――もとい、人間の死体。人間の倫理観や道徳観から鑑みても、口にする前から口にしたくないという思いが溢れてくる。美味であることなど想像もつかず、その逆……口にしてしまえば一瞬の内に嫌悪感が爆発して吐き出すであろう姿は想像がつく。


 仮に味が最高であると言われても、断固口にしたくない。


 尋常じゃない喰いっぷりからしても、お腹が空いていたか、他の様子を気にする余裕もないぐらい旨いのか、どちらかに絞られるだろう。ラルズ的には、後者であると願うばかりだ。


「魔獣の数は……全部で六。・・いや、七だな」


 死体を味わっている魔獣の数は、目視で見る限り六匹。無我夢中で喰い続けており、他の物事に少しも関心を抱いていない様子。


 我先にと牙を立てているのだ。他の仲間が潜んでいたりというのは低いだろう。現在目視で確認している数が、家の中にいる魔獣の総数と見て間違いない。


 死体にかぶりついている魔獣はどれも四足歩行の純獣型。大地を駆けるのが早そうな印象を抱く、狼本来の姿。体表も大型種と同じ紫がかった黒色で、身体的差異を除いて、初めて出会った斧持ち魔獣の支配部下と見るのが妥当か。


 敵を屠れる膂力が優れた大型種。獲物を捕らえる素早さに特化した小型種。魔獣の生態に詳しくないが、これも進化の形なのだろうか。


 そして――、


「あの魔獣は……多分リビングの奥だな」


 斧を携えた巨大な魔獣は目視外。位置が悪いようで、残念なことに姿は確認できない。


 しかし、部下たちが喰い続ける中で、自分たちの餌場より遠いところへ肉を喰らい投げているのは確認できた。行動と方角から察するに、ラルズが隠れて様子を窺っている壁の向こう側にボス狼が構えているのだろう。


「これなら、どうにかなるかもしれない……っ」


 魔獣たちはラッセルの死体にご熱心中。恐らく、あの死体を全て喰い終わるまでは、他の小さな物事に興味を示さないはず。無論、ラルズたちが見つかれば、味わう標的を古い死体から新しい死体にくら替えするのは目に見えている。


 こうしてラルズが息を殺しているとはいえ、気付く気配も素振りも感じられない。目の前に並んでいる肉に舌鼓を打っており、腹を満たしている。


 この小さな間だけバレずに進めれば――!


 距離にして数歩で完結する長さ。この短い間を乗り越えることができれば、外へと脱出することができる。


 希望が、ラルズの目の前で光る。状況は悪いが、全く望みが潰えているなんてことはなかった。


 だが、相も変わらず事態は一刻を争うというのも事実。


 死体から喰える箇所が無くなれば、再び魔獣は獲物を求めて散策するかもしれない。ラッセルという肉が残っていることが、ラルズたちの脱出を援護してくれている。


 死体を囮として利用するなど心が痛まれるが、生き残るためだ。確率を少しでも上げるためには、非人道的な行いもどうか認めて欲しい。


 ――よし、急いで戻ろう……!


 希望が灯り、ラルズはそのまま気を緩めることなく、音を出さないように慎重にシェーレとレルの待っている室内へと舵を取る。


 希望が傍まで近付いている故か、シェーレとレルの待つ室内へと戻る時間は、行きと比べて少し早く、無事に二人の元へと帰ることができたのだった……。





 


 

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